鶯に誘われてシリーズ
季語:稲の花
農耕の民にとって稲の花は米の出来高と直結し、祈りを持ってみつめる花といわれる。その心は、古代から飽食といわれる現代まで連綿として続いているといっても過言ではない。
わが欲(ほ)りし雨は降り来ぬかくしあらば 言挙(ことあ)げせずとも歳は栄えむ 大伴家持(『万葉集』18-4124) 【欲していた雨が降ってきた。これで言葉に出して神にお願いごとをしなくても稲の稔りは豊かになるであろう。五穀豊穣は約束されるであろう】
越中(富山県)では、天平感宝元年(749年)の閏5月6日(旧暦)以来、ちょっとした日照りになって田畑は次第に枯れてきていた。大伴家持は、その頃、越中守として赴任していた。そのような厳しい状況の中で、幸いにも6月4日に雨が降ってきた。家持は、嬉しい気持ちが込み上げてきたのであろう、「雨の降るのを喜ぶ歌」と題して詠まれている。
旧暦の6月4日は、西暦では7月22日にあたる。時期的には晩夏であるが、越中では、その時期が稲の開花期であったのであろうか。開花期に十分の雨が降らないと稲の花は咲かず不作になる。それは、化学肥料や有機肥料によって栽培する現在においても同じである。
稲の花
稲の花を見たことはありますか。小生は農家出身で田植えや田の草取りなどをしてきたが、写真のような稲の花を見たことはない。そこに稲の花の神秘が隠されているように思われる。
稲の開花と受粉は次の通り(Webサイト『山梨県総合教育センター』稲の花は自家受粉)。
- 稲の穂が出て伸びる。
- 天気の良い日の午前中にもみ殻が開いて6本のおしべが咲く。
- 花粉が飛び散る。
- おしべの根元にあるめしべの柱頭に花粉が付着する。自家受粉という。
- 花粉は胚に向かって花粉管を伸ばし受精する。
- 受精するともみ殻が閉じる。このもみ殻は永遠に開くことはない。
- 胚に養分が送られ米粒として成熟する。
2から6は、晴れた風のある日の午前10時ごろから1時間~2時間くらいの間の出来事という。しかも十分な雨も必要である。古代人が稲の神秘に魅せられたことが分かるような気がする。
歳と稔
ところで、和歌の中の歳(とし)は、『広辞苑』によると、「穀物、特に稲。また、そのみのり」である。稔は「とし」ともいう。
字形が異なっていても字音が同じであれば何らかの意義の共通性があると考える藤堂明保の「単語家族説」が知られているが、これは、字音だけではなく字訓でも適用される説とされている。「歳」と「稔」はともに「とし」であり、共通の意義を持つことになる。
『新撰字鏡』の鶯
平安時代に『新撰字鏡』という国語辞書があった。この辞書は、和製漢字を多用することで知られ、ウグイスについても、右の写真(『国会図書館ディジタルコレクション』「新撰字鏡」・宇久比須から引用)のように、4文字熟語とその意味「宇久比須(うくひす)」の対で表記されている。
熟語は「春官新歳」のそれぞれの漢字の右側、すなわち旁(つくり)として鳥を置いて構成している。
この四文字熟語は、いろいろな本で取り上げられているにもかかわらず、その由来についてはほとんど知られていない。『詩歌の森』では、「春+鳥」は春を知らせる鳥、「新+鳥」は新年を告げる鳥として解釈している。要するに、熟語としてウグイスの意味をもつとともに、個々の漢字もまたウグイスの意味をもっているわけである。
ウグイスは、まさに春を告げる春告鳥であり、「春+鳥」を当てたのであろう。「新+鳥」は、旧暦では新年に鳴く鳥、新鶯(しんおう)となる。
「官+鳥」については、中唐の白居易の『白氏文集』の中の漢詩「上陽白髪人」の一節「宮鶯百囀愁厭聞【宮鶯百囀(きゅうおうひゃくてん)するも愁いて聞くを厭う】」の中の宮鶯が該当する。宮鶯は「宮殿にいる鶯」とされているが、この漢詩では宮女の隠喩でもある。
(「上陽白髪人」は、顔は芙蓉、胸は玉と形容される、16歳の美しい乙女が玄宗皇帝のいる長安の都に連れてこられたが、楊貴妃の目に留まり、離宮の上陽宮に軟禁され、今は白髪となってしまった。宮中の大勢の宮女たちが賑やかに誘いにくるが、愁いのある心ではそれを聞く気にはなれない、と老女の悲嘆を謳い上げた、為政者に対する教訓詩である。)
その後、宮鶯は、科挙に合格して宮殿に務める官僚を表す隠喩となって行く。科挙に合格することを「鶯遷(おうせん)」とか「遷鶯(せんおう)」と呼ばれたことが知られている(『尚書故実』)。『広辞苑』には、「鶯がくらい谷間を出て高い木に移ること。転じて、進士(科挙のコースの一つ)の試験に及第する意。昇進・転居などした人を祝うことばとして用いる。喬遷」と記されている。
日本では、宮鶯を宮の鶯という。王朝文学の『源氏物語』では、光源氏と娘の明石の姫君を鶯に喩えているがまさに優雅な宮の鶯である。『平家物語』の厳島御幸の条には、「梢の花色は衰えて、宮の鶯老いたり」とあり、仏教の無常観を説く一節として知られているが、平清盛によって鳥羽殿に軟禁された後白河法皇の隠喩として解釈しうる。
「歳+鳥」は、前述のことから稲作の時期を告げる鳥と推察される。
『出雲風土記』の法吉鳥と稲作儀礼
島根県松江市法吉(ほっき)町にある法吉神社は『出雲国風土記』に記されている古い神社であり、その祭神は宇武加比比売命という。『出雲国風土記』島根郡法吉郷(ほほきのさと)条に、宇武賀比売命が法吉鳥(ほほきどり、ウグイスのこと)と化して(変身して)この郷に飛んできて鎮座したために法吉と呼ぶようになったという地名説話がある。
法吉神社の神事を調べると、御種祭(2月21日)、宮籠祭(8月6日)という神事がある(『神社名鑑』)。
『広辞苑』によると、種祭(たなまつり)は「苗代(なわしろ)に播種する日の祝い」、種畑(たなばた)祭とあるが、これが法吉神社の御種祭に相当するのであろう。水口(みなくち)祭とも同義である。
『綜合日本民俗語彙』によると、水口祭について、稲作儀礼の一つで、種子籾(たねもみ)を苗代に播いたときに行われる祭。ミトマツリ、苗代祝い、種子播き祝いなどともいって家ごとに行う儀礼であるという。
一方、「宮籠(みやごも)り」については、『綜合日本民俗語彙』によると、御籠(おこも)りと同じで、「御籠祭」は諸方にある忌み籠り祭の一例で、神の降臨を祈って謹慎籠居(ろうきょ)することであるが、普通には村里の季節的な祈願のために人々が集まって夜明かしをするとか、夜更けまでいるとかのことに用いるという。
これらの趣旨を踏まえ、法吉神社の宮籠祭が8月に行われることから考慮すると、宮籠祭は、「初秋の稲の花の咲く季節」に行われる神事で、収穫前の豊穣祈願ということになると推察される。
法吉鳥と法吉神社の祭との対比で考えると、御種祭は春の到来を告げる春告げ鳥の時期の祭りで、宮籠祭は、「鶯音(ね)を入(い)る」と云ってウグイスの鳴き納めの時期の祭りということになる。「鶯音を入る」は、村上季吟の季語集『増山の井(1663年)』に記され、晩夏の季語といわれるが、実際の時期は8月の中旬といわれている。小生も8月中旬に「ホーホケキョ」を聞いたことがある。
法吉鳥、すなわち鶯は、御種祭の頃から稲の花の咲く頃まで、ホーホケキョの鳴き声を長い間聞かせてくれる。このことは農耕民からすると、早春に田に降りてきて種播きの時から稲の生育を見守り、稲の花の咲くのを見届けて何処かへ去っていく、田の見守りをしてくれる神、すなわち田の神と考えても不思議ではない。
鶯については、新潟県の民謡や「見るなの座敷」などの昔話から、田の神・山の神とする説が知られている。田の神の役割が終わると、鶯は山に帰り寒い冬を山で過ごす山の神となる。そして、早春に再び田に降りてくる。民俗学や文学の世界ではそう考えられているのである。これは、山の神・田の神の春秋去来の伝承という農耕伝承に帰着する。仏教的に云えば輪廻再生である。
法吉鳥の法吉に託されたもの
風土記編纂において、諸国の郡郷の名に「好字」をつけること、すなわち郡郷の名を漢字二字の嘉字に改めることという指示(Webサイト「神話博しまね」出雲国風土記のページ)があった、といわれる。
「法吉」は、町名や神社名では「ほっき」と読まれるが、『出雲国風土記』では「ほほき」である。
「法吉」という漢字表記について、長い間風土記の枠以上の新たな展望は開けなかった。その扉を開かせてくれたのが、図書館で偶然に見つけた白川静の辞書である。
それによると、「法」は「宣(の)る」の名詞形、「宣る」はもと神意を「告(の)る」意で、「神の定めたおきて」(『字訓』)。また神事を「吉」というのがその古義という(『字統』)。
このことから、法吉鳥は、神事を告げる鳥または神事の時期を告げる鳥と解釈されてきたのではなかろうか。
そのように解釈すると、法吉鳥の語源が単なる鳴き声ではなく、「何らかの意味あるものと解して、名称をその間に求めようとした念慮も、古人は我々よりもはるかに強烈なものを持っていた」という柳田國男の説(『野鳥雑記』)を思い出す。
宇武加比比売命と法吉鳥と稲の関係について
宇武加比比売命は、『出雲国風土記』では「宇武賀比売命(うむがひめのみこと)」、『古事記』では「蛤貝比売(うむかひひめ、うむぎひめ)」と記され、蛤を神格化したものとされる(『ウィキペディア』キサガイヒメ・ウムギヒメ)。これから、「加比」は「貝」。貝の身は固い殻に包まれている。
法吉鳥、すなわち鶯は卵から生まれることは『万葉集』の和歌にも記されており、卵は「かいご」とか「かい」と発音されていたといわれる。『広辞苑』には、「かい‐ご【卵】」は殻子(かいご)の意とある。殻の中に鶯がいると考えていたように思われる。
米も固いもみ殻をもつ。
そして、これらの貝殻、卵の殻、もみ殻に共通するのは「かい」(殻)で、その中身、すなわち宇武加比比売命(蛤の身)、法吉鳥(鶯)、米は殻の中の子と考えられる。
以上の言葉の共通性を前提にして、稲作信仰に基づき宇武加比比売命や法吉鳥という素材が生み出されたのではないかと推察される。
(奥谷 出)