時候:早春の季語 「梅に鶯」

時候

早春の季語「梅に鶯」

 §「梅に鶯」

 「梅に鶯」は取合せのよいことのたとえである1)。また、花鳥風月という風流を代表するものでもある。「竹に鶯」「柳に鶯」とともに中国伝来のものであるが、中国では「梅に鶯」は多くはない(「梅に鶯」の成立と変容)2)、といわれる。しかし、日本では他のものに比べて「梅に鶯」を愛でる傾向が強い。また、「松に鶯」という取合せが『源氏物語』などで知られている。

 日本では、「梅に鶯」の取合せは最古の漢詩集『懐風藻』に早くも登場する。天智天皇の孫で大友皇子(弘文天皇)の長子、葛野王(かどののおおきみ)の漢詩「春日翫鶯梅」は「梅に鶯」を詠った最初の作品といわれる3)
 最古の和歌集『万葉集』には、大伴旅人が大宰府で主催した梅花の宴で7首の「梅に鶯」の和歌が詠まれている4)
 平安時代に入ると、唐風が非常に強い弘仁・貞観文化が花開き、3つの勅撰漢詩集、空海や菅原道真などの漢詩私家集が編纂される5)。それらの中に、「梅花落」という詩題の漢詩がある。

     梅花落
              (嵯峨天皇御製『文華秀麗集』春)
 鶊(うぐひす)鳴きて梅院暖(あたたか)けく
 花落(ち)りて春風に舞ふ  

 「梅に鶯」の取合せが成立したのはこの頃2)、といわれる。

鶯宿梅の故事
 その後、『古今和歌集』などにも見られるが、「梅に鶯」を不動のものにしたのは鶯宿梅の故事であろう。
 白河院政期の平安時代後期に成立したとみられる歴史物語『大鏡』に紀貫之の娘、紀内侍が詠まれた和歌を中心とした故事が記されている。
 村上天皇の御代(947~956)のこと、御所の清涼殿の前の梅の木が枯れてしまったので、代わりの木を探していたところ、西の京に色濃く咲いている、姿かたちの立派な梅の木が見つかった。早速掘り起こして持って行こうとすると、その家の主人(紀内侍)が召し使いを介して、これを梅の木に結び付けて御所に持って行ってくださいと云って、和歌を記した短冊を渡して寄越された。

 そこには、

  勅なればいともかしこしうぐいすの
      宿はと問はばいかが答へむ 

(勅命ですから、まことに恐れ多いことで、謹んでこの木は差し上げましょう。
 しかし、いつもこの木に来なれている鶯がやってきて、
 「私の宿はどこへ行ってしまったの」と尋ねられたら、どう答えたものでしょうか)

と詠われていた。それを読まれた村上天皇はいたく感心されて梅の木を返えさせたという故事である6)
 その時から、この梅が「鶯宿梅」、又は「軒の紅梅」と称せられて、「みやび」や「もののあはれ」と云うことを尊んだ王朝の優雅な時代精神を現す代表的物語として、後生にまで喧伝されるに至ったのである7)
 なお、この名木の梅は、臨済宗の名刹相国寺(しょうこくじ)の塔頭(たっちゅう)である林光院の庭園に接ぎ木をしながらも現存し、春には今も美しい花を咲かせる7)

§行燈で鳴けば

 鶯を飼い鳥として飼育する方法として、付け子と夜飼いという方法が知られている。
 付け子とは、鶯の鳴き合わせに出品できるように美声の鶯(仮親という)のそばに雛を付け、その音色を習わせて飼育する方法である9)
 夜飼いは、冬の後半から夜間に灯火を灯し日照時間を長くしたり、すり餌の混合を加減したりして鶯を早鳴きさせる方法である10)。日照時間が長くなるとホルモンの分泌が増加し早く鳴き始めるといわれている。

 次の川柳は、作者も出典も明かでないが、江戸時代の旧暦の正月に詠われたらしい。前述の夜飼いの成果である。

  行燈で鳴けば室(むろ)では笑ってる14)

 この川柳には主語がないので補足すると、「行燈で鳴く」のは鶯、「室(むろ)で笑ってる」のは梅の花である。
 「行燈で鳴けば」とは、夜飼いの灯火として行燈を用い、その照明で鶯に光を当て人工的に早く鳴かせることである。江戸時代の『東都歳時記』には、「鴬、立春の15,6日頃より新哢を発す……」とあるが、それを待たずに人工的な技術によって旧暦の正月に鳴かせる11)、ということである。
 花が咲くことを花笑む(『日本国語大辞典第二版』)12)とか花笑うという。縫い目が解けるように蕾が開きかける状態を花が綻ぶといい、そこから、笑むや笑うに喩えられるようになる。梅の盆栽も室内に置けば暖かいので早めに花笑うとなる。

 こうして、めでたい正月に梅の花が咲き、鶯の美声を聞いて「梅に鶯」を楽しむという風流な遊びを行っていたのである。なお、現在では鶯を飼うことは禁じられている。

梅が鶯を笑っている構図
 「鳴く(泣くは掛詞)」と「笑う」は対比的な言葉である。一方、「梅に鶯」は仲のよい取合せを示す成句であるが、その中の梅が人工的に鳴かせられている鶯を見て嘲笑しているかのような構図の川柳である。
 しかし、鶯だけが人工的な環境で鳴いているのではなく梅もまた人工的な環境で笑っているのである。作者の視点に立てば、人工的な環境で作り上げた「梅に鶯」を笑っているようでもある。

§下谷鶯横丁と子規

 正岡子規が永住の地としたのは下谷鶯横丁、現在の台東区根岸、鶯谷駅北口の付近である。江戸時代 元禄(1688~1704)の頃、上野寛永寺の貫首であった公弁法親王が「関東の鶯には訛りがある」といって、京都から取り寄せた京育ちの鶯をこのあたりに大量に放鳥したことから鶯の名所となった5)、といわれる。
 江戸の川柳にも

   山の岸鶯迄が京の種

とある。「山の岸」は根岸のこと、上野の東叡山を比叡山に見立てた命名に由来する13)

 京育ちの鶯の鳴き声を聞いて、地元の鶯は学習し美声で早鳴きするようになったといわれる。鶯は学習によって美声の鳴き声を獲得する習性があることはすでに知られていたことである。

  雀より鶯多き根岸かな 子規 明治26年

 この句から多くの鶯がいたことが窺える。この句を刻んだ石碑が意味深にも根岸小学校の門前に建立されている。

 放鶯により、江戸には多くの鶯の名所ができたと思われる。なにしろ、鶯は縄張りを構える鳥なので広域に拡散するからである。

江戸の鶯の名所
 放鶯で最も有名な場所は根岸の里。上野の山の東北麓の閑静な田園地帯で、初音の里ともいい、鶯の名所であった。根岸小学校近くの根岸の梅屋敷跡に、江戸時代の嘉永元年(1848)3月に建立された「初音の里鶯の記」と記された石碑がある。鶯の鳴合せ(啼合会(ていごうえ)ともいう)が実施されたことを示す記念碑で今も存在する15,16)。また、鶯谷駅南口前の新坂の坂下あたりには鶯谷と呼ばれる地域があった18)
 谷中の霊梅院付近の初音の森や谷中鶯谷17)、神田明神の社地19)、本郷・建部坂(初音坂とも呼ばれた)の初音の森20)、麻布竹谷町の巣立野(「うぐいすをたづねたづねて阿左布まで」という芭蕉の句が知られている)21)、小石川・金剛寺坂脇の小石川鶯谷22)、霞が関・三年坂の鶯谷(『新編江戸志』(近藤義休撰)には「曲り曲りたる坂の名なり、亦此辺鶯多し、因て鶯谷というよし見えたり」とある)23)、渋谷区鶯谷町の鶯橋(鶯谷町は三田用水鉢山口分水に架かっていた鶯橋に由来し、河川が通っていたため、桜丘、鉢山、代官山に囲まれた谷地となっている)5)、などが江戸の名所として知られていた。

 しかし、それらの鶯の名所も近代化の波に晒され潰されていったようである。子規は、次の句を残している。

  汽車の音鶯逃げてしまいけり 子規 明治29年

鶯横丁と子規
 子規は根岸の鶯横丁に子規庵を構え終(つい)の住家とした24)。なお、子規庵は加賀藩前田侯の下屋敷の御家人用二軒長屋の一角といわれている25)

  鶯横町塀に梅なく柳なし 子規 明治30年

 子規らしく自然を詠んだ句であるが、味も素っ気もないようにも感じられる。考えてみると、これも「梅に鶯」の成句があって味わいが出てくる句なのであろう。

 子規は肺結核で血を吐く自分を、喉の赤いホトトギスに擬えてホトトギスの異名である子規を名乗ったといわれる。そして、鶯横丁に子規庵を構えたのである。これには、子規らしいユーモアが感じられる。
 ホトトギスは、鶯の巣に卵を産み付け、鶯に孵化・子育てをさせる、いわゆる托卵という習性をもった鳥である。これは一種の寄生である。ところが、前述のように、子規は自分の名前や建物の名前まで子規として鶯横丁に住んでおり、まるで鶯横丁に寄生しているかのように感じられる。托卵するホトトギスにあやかったのであろう。(出)

参考文献

  1. 『広辞苑』第6版「梅に鶯、付け子」 新村出 2018年6月 岩波書店 
  2. 「梅に鶯」の成立と変容 : 日中比較の角度から 韓 雯 雑誌『東アジア文化研究 2016年1月』國學院大學大学院文学研究科
  3. 『懐風藻』学術文庫 江口孝夫 2000年 講談社
  4. 『萬葉集』(新潮日本古典集成) 青木生子 平成27年 (2015) 新潮社
  5. 『ウィキペディア』「平安時代、ウグイス、鶯谷町」
  6. 新編日本古典文学全集『大鏡』橘 健二, 加藤 静子 (翻訳)  1996年5月 小学館
  7. Webサイと(林光院の鶯宿梅 | 関連資料 | 資料室 | 臨済宗相国寺派 (shokoku-ji.jp)
  8. Webサイト(鶯宿梅 ――― 故事と伝説(2018年10月改訂) (cluster.jp)
  9. 『日本国語大辞典第二版』 付け子 小学館 2001~15年
  10. 『日本国語大辞典第二版』 夜飼い 小学館 2001~15年
  11. 『東都歳時記』春・鶯 齋藤月岑編 天保9年(1838)
  12. 『日本国語大辞典第二版』 花笑む 小学館 2001~15年
  13. 『大江戸花鳥風月名所めぐり』 松田道生 平凡社新書 2003年2月 平凡社
  14. Webサイト(ウグイスと江戸の人々 (sakura.ne.jp)
  15. Webサイト(初音里鴬之記拓本 文化遺産オンライン (nii.ac.jp)
  16. Webサイト(初音里鴬之記碑 台東区ホームページ (taito.lg.jp)
  17. Webサイト(鶯谷駅名の由来考 (cluster.jp)
  18. Webサイト(根岸及近傍図 現代語訳注釈付き|根岸の地図を読む会:活動報告|note
  19. Webサイト(江戸歳事記 4巻 付録1巻 [1] – 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)
  20. Webサイト(建部坂(文京区本郷) (sakura.ne.jp)
  21. Webサイト(港区ホームページ/麻布地区の旧町名由来一覧 (city.minato.tokyo.jp)
  22. Webサイト(小石川鶯谷考 (cluster.jp)
  23. Webサイト(スポット(三年坂)|【公式】東京都千代田区の観光情報公式サイト / Visit Chiyoda (visit-chiyoda.tokyo)
  24. Webサイト(【下谷 横町(横丁)】鶯横丁 | 江戸町巡り (amebaownd.com)
  25. Webサイト(子規庵について | 子規庵 (shikian.or.jp)

(出)


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