小石川鶯谷考

鶯に誘われてシリーズ

小石川鶯谷考

奥谷 出

1.はじめに

 江戸時代、水戸家の江戸上屋敷(現・小石川後楽園)の近くに、小石川鶯谷という鶯の名所があった。享保20年(1735)刊行の地誌『続江戸砂子温故名跡志』には、「小石川金剛寺坂の上の谷なり」、と記されている。
 江戸には、小石川鶯谷や谷中鶯谷のように「鶯谷」を末尾に付加したり初音の里とか初音の森とか「初音」を冠したりした、地名や俗称など、鶯の名所が多く見られたが、小石川鶯谷はそれらの中でも早くから知られていた名所である。
 小石川台地の尾根を南東から北西に走る春日通り(254号線)の南側に神田川がある。その春日通りから神田川に下る途中の神田上水跡のあたりまでの坂道の一つとして金剛寺坂がある。文京区の立札によると、「江戸時代、この坂の西側、金富小学校寄りに金剛寺という禅寺があった。この寺のわきにある坂道なので、この名がついた。小石川台地から、神田上水が流れていた水道通り(巻石通り)に下る坂の一つである」、という。
 金剛寺は、建長2年(1350年)に、鎌倉幕府第3代将軍源実朝の菩提を弔うために創建され、元々は相模国大住郡波多野荘(現・神奈川県秦野市)にあったが、その後武蔵国豊島郡江戸荘小日向郷金杉村(現・東京都文京区春日)に移転した。文明年間(1469年~1487年)には太田道灌が再興している。戦後に、地下鉄丸ノ内線建設のため、中野区に移転した。当初は臨済宗の寺院であったが、永正6年(1509年)に曹洞宗に改宗した(『ウィキペディア』金剛寺(中野区))。 

 幕府が編纂した江戸の地誌『御府内備考』の小石川の項には、「鶯谷は金剛寺の傍の谷なり、此地よりいずる鶯は聲他に勝れてよかればかくいふなりとぞ(『改選江戸志』)」、とあり、鳴き声のよい鶯がいたことがわかる。元禄の頃、上野寛永寺の貫首・公弁法親王の放鶯の故事(根岸のみちしるべ『東京下谷 根岸及び近傍図』鶯)が知られているが、それにより上野の周辺に放された鶯が飛散したのではないかと想定される。
 関東の鶯は訛りがあると云って、放鶯された鶯は京育ちの鶯だったので声は美しく、また早鳴きであったといわれる。

2.金剛寺ならびにその近傍の概観

 金剛寺やその近傍はなかなか複雑な様相を示しているので、まずその概観を見ることにしたい。

『江戸名所図会』金剛寺
『江戸名所図会』7巻 金剛寺
国会図書館ディジタルコレクション所蔵

 右図は、『江戸名所図会』7巻(国会図書館ディジタルコレクション所蔵)に収められている金剛寺のスケッチである。図の下の方に小川らしきものが東西に流れているが、神田上水である。その橋を渡り北に進むと、4段の石段らしきものが見え、その奥に総門がある。ここを入ると、金剛寺の境内である。        
 境内の両側には人家らしきものが立ち並ぶ。後述する『江戸切絵図』の東都小石川絵図に見える金剛寺の門前町(小日向金剛寺門前町)の町家であろう。境内とは段差があるように見えるので窪地と思われる。
 総門を入って奥に進むと、再び6段の石段がある。その石段を過ぎてさらに奥に進むと5段の石段が現れ、そこに本堂が南向きに建っている。このあたりは南向きの傾斜地であることを示している。本堂の後には、崖のようなものが見え山林が続く。
 本堂の東側は見えないが、東都小石川絵図から門前町や武家屋敷があるはずである。西側の高い石段と低い石段の2つを上ると、神社らしき建物が見え、その西側には実朝碑と記された石碑が見える。

 次に『江戸切絵図』の東都小石川絵図を見てみよう。

『江戸切絵図』東都小石川絵図
『江戸切絵図』東都小石川絵図
国立国会図書館 デジタルコレクション所蔵

 絵図の中央付近に金剛寺の敷地がみえる。その右側(東)に小日向金剛寺門前とあるが、門前町である。その東側に北に向かう小径があり、これが金剛寺坂である。
 金剛寺の敷地の東側半分ほどの北側、『江戸名所図会』から推測すると金剛寺の本堂の裏に5軒の武家屋敷が横伏せのL字状に並び、その東端の2軒は金剛寺坂に接する。武家屋敷のうち4軒は北向きであり、その北側に小径aが東西に延びその東端で金剛寺坂と交わる。残りの1軒は東向きである。
 小径aの北側に小石川金杉水道町の南向きの町家が広がる。南北に2列の町家があり、その2列の間に小径bがある。小径bは西側で小径aと繋がり、東側で金剛寺坂と接する。            
 2列のうち南側の列の西端は空き地であり、そこに「明地 此下ヲウグヒスダニト云」と記されている。     
 武家屋敷の西側は金剛寺の敷地である。金剛寺の敷地の西側半分の一部である。そのあたりに神社や実朝碑が建っていたのであろう。その北側に曹洞宗の多福院がある。多福院は東向きに建っているので、小径aや小径bを通って境内に入ったのであろう。現在も変わらない。
 多福院の裏に一軒を置いて新坂という坂道が金剛寺坂に並行するように南北に伸びている。新坂の途中には、徳川幕府第15代将軍徳川慶喜の終焉の地がある。また、金剛寺坂の東には永井荷風の生誕地があり、さらに東には水戸家の江戸上屋敷があった。
 武家屋敷の南、金剛寺の敷地の東には南向きの小日向金剛寺門前町が続く。その南を神田上水が西から東に流れている。

 このあたりの区画は、グーグルマップや航空写真で見ると、その区画は東都小石川絵図と類似しており比較的正確に残されている。
 大きく異なるのは、金剛寺は丸ノ内線の建設のために中野区に移転させられ、その敷地跡を南東から北西に貫通されている、ことである。また、前述の小径aの西端から南に降りる階段ができ、金剛寺の敷地跡を南北に貫く小径cに出て巻石通りに繋がる。この巻石通りは神田上水跡であり、名前はそれに由来しているという。

ページ区切り注
その1: 1.はじめに  2.金剛寺ならびにその近傍の概観
その2: 3.永井荷風による小石川鶯谷の推定地について
その3: 4.太田南畝の漢詩を通じての再考
その4: 5.鶯の明治維新と伊沢修二 6.おわりに
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