小石川鶯谷考

5.鶯の明治維新と伊沢修二

 本稿は、連載中の『小石川鶯谷考』のその4です。今までは小石川鶯谷の場所の推定をしてきましたが、これは異質です。ウグイスの鳴き声「ホーホケキョ」は仏教の興隆の中で生まれたものですが、現在の私たちにはそういう認識はほとんどありません。そのことは鶯に関する、数ある謎の一つといわれており、その謎解きに挑戦します。

 前述の繰り返しになるが、荷風の随筆『礫川徜徉記(れきせんしょうようき)』には、多福院の西の新坂に、「稚き頃、大学総長浜尾氏、音楽学校長伊沢氏、尾崎咢堂の邸が門を連ねていた」、と記されている。
 その中の伊沢氏とは伊沢修二氏のことであろう。明治21年(1888年)1月に、東京音楽学校(現・東京芸術大学音楽学部)の校長に就任している。米国に留学して音楽教育の指導を受けたルーサー・メーソンを招聘し明治維新後の音楽教育を確立した人である(『ウィキペディア』伊沢修二)。

(1)法法華経の起源

 その音楽教育の中に、鶯との関りが見られるのである。
 鶯の「ホーホケキョ」の鳴き声は、仏教の興隆の中で生まれたのはご存じであろうか。江戸時代初期に徳川幕府がキリシタン禁制を進める中で仏教の檀家制度が確立される。いままで僧兵として読経を疎かにしていた僧侶たちは読経に努めるようになったのであろう。江戸時代初期、寛永10 (1633) 年に刊行された俳諧集『犬子(えのこ)集』には、次の俳諧が記されている。

   鶯のほう法花経(ほけきょう)や朝づとめ     玄利『犬子集』

 僧侶のことを「鶯」といったことがある。そのことから、法華経の法に従って僧侶が早朝の務めである読経をしている様子が窺える。普通に考えれば珍しくもない情景である。その朝づとめの情景をわざわざ取り上げているところに、この俳諧の価値があると思われる。すなわち、荒々しい僧兵であった僧侶たちが、畏まって読経している姿は滑稽でさえあったのであろう。
 この情景は鶯が早朝から「ホーホケキョ」と鳴くことから見立てたものであり、その鳴き声は漢字では「法、法華経」と記される。小生は、それに返り点を付けて法華経の法と鳴いていると解釈している。室町時代末期に細川幽斎が詠んだ狂歌に「「ホフ法華経」という聞きなしがすでにあるが、そのときの状況から推察すると、「法、法華経」に結び付け難い。恐らく、この俳諧によって、鶯の「ホーホケキョ」の鳴き声は定着して行ったのであろう。
 正保元年(1645年)に刊行された、同じ著者の俳諧論書『毛吹草(けふきぐさ)』(国宝)には、

   鶯の声には誰もほれげ経  『毛吹草』

と詠われている。「惚れる」と「法華経」が掛け言葉になっている、「ほれげ経」は、美声の鶯の鳴き声「ホーホケキョ」が人々に愛され、定着されていたことを示していると考えてもよいであろう。

(2)廃仏稀釈と鶯

 ところで、仏教に関する論争は江戸時代にもあったが、仏教は明治になって大打撃を受ける。
 慶応4年3月(1868年4月)に発令された太政官布告、通称「神仏分離令」は神仏習合の弊害を緩和するものであり(『ウィキペディア』神仏分離)、また、明治3年1月(1870年1月)に出された詔書「大教宣布」は、神道を国教と定め、祭政一致の国家とする国家方針を示したものであった(『ウィキペディア』大教宣布)。
 あくまでも神道と仏教の分離が目的の行政改革であり、仏教排斥を意図したものではなかった、といわれるが、民衆の暴動が発生し、結果として寺院・仏像・仏具の破壊や破棄といった、廃仏毀釈運動が全国的に展開された。なお、「廃仏」は仏(仏教の対象)を廃(破壊)し、「毀釈」は、釈迦(仏教の開祖)の教えを壊(毀)すという意味である(『ウィキペディア』廃仏毀釈)。
 この運動によって、春日神社と一体の神仏習合が行われていた、奈良の興福寺は大打撃を蒙ったといわれる。興福寺別当だった一乗院および大乗院の門主は早々と還俗し、83ケ寺の子院、6つの坊は全て廃止され、僧は全員自主的に還俗し、とりあえず「新神司」として春日神社に仕えることとなった。寺領は明治3年(1870)の上知令で没収され、かろうじで境内のみは残されていたが、それも奈良公園の一部になってしまった。まったく廃寺同然となってしまった。
 そして、有名な五重塔は売り出され250円で買い手が付いたが、買主は塔自体を燃やして金目の金具類だけを取り出そうとしたため、延焼を恐れた近隣住民の反対で取り止めになったといわれる。(『ウィキペディア』興福寺)。

 この廃仏毀釈運動の影響は、ほう法華経と鳴く鶯にも及んだことが想定される。現在、鶯の鳴き声「ホーホケキョ」から仏教の法華経を連想する人はどれほどいるのであろうか? ほとんどいないといわれている(『ちんちん千鳥の鳴く声は』)。
 明治維新は廃仏毀釈運動を生み出し、人心は仏教から離れ、経読鳥と呼ばれた鶯も仏教から離れていったものと推察される。このことは、「ホーホケキョ」の鳴き声が聞きなし、すなわち鳴き声を人間の言葉に置き換えて聞くことを考えると理解できるであろう。

 (3)音楽教育と鶯

 そういう世情の中で、明治12年(1879)に伊沢の主唱で創設された文部省音楽取調掛によって、学校教育用に編纂された『小学唱歌集』が編纂され(『ウィキペディア』小学唱歌集)、「花さく春」の歌詞の中に「ホーホケキョ」の鳴き声が盛り込まれた(国会図書館ディジタルコレクション『小学唱歌集』)。

  花さく春     伊沢修二 作詞・作曲
 
  花咲く春のあけぼのを
  はやとくおきて見よかしと
  なく鶯も こゝろして
  人の夢をぞ さましける
  ホーホケキヨウ ホーホケキヨウ
  ケキヨ ケキヨ ケキヨ ケキヨ
  ホーホケキヨウ ホーホケキヨウ ホーホケキヨウ
  ケキヨ ケキヨ ケキヨ ケキヨ
  ホーホケキヨウ

 この歌は、明治20年(1887)に発行された『幼稚園唱歌集』にも取り入れられている(国会図書館ディジタルコレクション『幼稚園唱歌集』)。

 そして、再び鶯に「ホーホケキョ」の鳴き声が蘇ってくるのは、この唱歌教育であったろうと思われる。それ故、伊沢は「ホーホケキョ」の復活のきっかけを仕掛けた人と考えてもよいであろう。何故取り上げたのだろうかと思ってはいたが、小石川鶯谷の近くに住まわれた事実があることから、それを契機としていることは自明であろう。

 その後、明治34年(1901)幼稚園唱歌として滝廉太郎の口語体の「ほうほけきょ」が続き、昭和16年(1941)林柳波の「ウグヒス」(『ウタノホン 上』)まで続く。

  ウグヒス 林柳波 作詞 井上武士 作曲

  うめの小枝で ウグヒスは
  春が来たよと うたいます
   ホウホウ ホケキョ ホウホケキョ
   ホウ ホケキョ
  雪のお山を きのうでて
  さとへ来たよと うたいます
   ホウホウ ホケキョ
   ホウ ホケキョ

 このような人々の努力もあり「ホーホケキョ」の鳴き声は復活したが、その時には、「ホーホケキョ」は仏教の「法華経」の聞きなしから生まれたことはすっかり忘れ去られ、その由来を知る人はほとんどなくなってしまったと思われる。鶯には経読鳥の異名があるが、それも忘れ去られたと思われる。
 代わってメロディに乗って歌われる歌心のある鳥としての認識が芽生えたのであろう。俳人高浜虚子は次の句を残している。

   鶯や文字も知らずに歌心 (高浜虚子 「五百句」)

 維新とは「これ、新たなり」といわれるが、鶯も明治維新によって影響を受けて変わったのである。経読鳥から歌心鳥へと

6.おわりに

 江戸時代の地誌には、「小石川鶯谷は金剛寺坂の西なり」の程度にしか記されていない。近くに行けばわかったのであろうか、あるいは詳細に記述することが禁じられていたのであろうか。
 それに対して、永井荷風は『江戸切絵図』などの調査や実地観察などを通じて、小径aの崖下、小径cの西で、金剛寺の敷地内でかつ本堂の西に小石川鶯谷はあったと推定している。この推定地は、『江戸切絵図』の東都小石川絵図に記されている「此下をウグヒスダニト云」に基づいて推定したと思われる。

 しかし、鶯谷の崖上の遷喬楼に住んでいた太田南畝の漢詩「鶯谷十詠」の序文に基づき、遷喬楼からの景観から推定すると次のようになる。

  1. 遷喬楼は金剛寺の東にあり、前に金剛寺坂、後に鶯谷があった。鶯谷は金剛寺の東にあったことになり、荷風の推定と異なる。
  2. 遷喬楼の西に富士山が遠望されることから、遷喬楼の西には金剛寺の本堂ではなくその南の境内があったと推定される。
  3. 遷喬楼や鶯谷があった場所は、金剛寺の東にあった金剛寺門前町の中であろう。金剛寺の境内と考えていた荷風の推定と異なる。
  4. 遷喬楼の西や南には崖があったと推定されることから、『永井荷風の東京空間』の2番目の崖の上で、かつ地下鉄丸ノ内線の北側に遷喬楼や鶯谷はあったと推定される。

 これから、荷風とは異なる小石川鶯谷の位置が浮かび上がってくる。

 鶯の鳴き声「ホーホケキョ」は、仏教の興隆の中で生まれたことになっているが、仏教を連想する人がほとんどいないということが謎とされていたが、明治維新の中で、廃仏毀釈運動が起こり、鶯の「ホーホケキョ」の鳴き声も読経の声と同じく一時忘れ去られたと思われる。
 そして、小石川鶯谷の近くに居住していた伊沢修二が西洋音楽を導入する中で、小学唱歌集や幼稚園唱歌集の中に「ホーホケキョ」の鳴き声を歌詞として盛り込み蘇らせた。そのとき、鶯は経読鳥から歌心のある鳥に一新された。これは、鶯の明治維新といっても過言ではないであろう。


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