小石川鶯谷考

3.永井荷風による小石川鶯谷の推定地について

 小石川鶯谷の位置について、前述の地誌や切絵図に基づいて整理すると、

  1. 「小石川金剛寺坂の上の谷なり」(『続江戸砂子温故名跡志』小石川鶯谷)
  2. 「金剛寺の傍の谷なり」(『御府内備考』小石川鶯谷)
  3. 小石川金杉水道町の空き地に、「明地、此下ヲウグヒスダニト云」(『江戸切絵図』東都小石川絵図)

となる。これらの情報を通してわかることは、小石川鶯谷は金剛寺坂の西にあり、かつ金剛寺の傍らにあったということである。

 より具体的な資料がないかとWebサイトで検索している途中に、Webサイト(『東京さまよい記』)の「鶯谷~無名の階段坂」という小石川鶯谷の散策記事(ブログ記事)を発見した。
 この記事は、単なる散策記事ではなく小石川鶯谷について永井荷風が記した日記『断腸亭日乗』、随筆『礫川徜徉記(れきせんしょうようき)』や江戸時代の『江戸切絵図』の東都小石川絵図に基づいて、小石川鶯谷を訪ね歩いた紀行文である。
 記事のカテゴリは坂道であり、そのため副題として坂道を記すことにしたと思われるが、それも名の知れた金剛寺坂ではなく荷風が小石川鶯谷と推定した場所の脇を通る無名の階段坂を選んで副題としているところにこの紀行文の趣向があるように思われる。無名の階段坂は前述の小径aと小径cとの間の下り階段である。
 この紀行文によって大いに触発され、太田南畝の小石川鶯谷の住居「遷喬楼」に関する漢詩の存在を知ったことが、この随筆を書く端緒になったことは確かである。「遷喬楼」の漢詩による小石川鶯谷の推定は別途記すことにして、まずは荷風の推定地について追跡してみたい。

『江戸切絵図』東都小石川絵図
『江戸切絵図』東都小石川絵図
国立国会図書館 デジタルコレクション所蔵

 文京区の立札「金剛寺坂」によると、荷風の生誕地はこの坂の東寄りで、荷風は当時の黒田小学校に、この坂を通ってかよっていた。そのような縁からであろうか、鶯谷を2回訪れ、その位置を推定していたことが荷風の日記に見られる。
 荷風が1回目に訪れたのは、昭和8年(1933)正月元旦である。この日、雑司谷墓地で父のお墓参りをし、護国寺門前より電車で伝通院に至り金富町(明治時代の町名、正確には小石川金富町であり、これにも金剛寺の余韻が感じられる)の旧宅の塀外を巡る。その後、金剛寺坂の中腹に出て、それより小径(前述の小径bか)を西に辿り崖を下りて多福院の門前に至り、崖下の道を過ぎて小日向水道町の大通り(巻石通り)に出ている。
 「鶯谷~無名の階段坂」の紀行文によると、多福院から無名の階段坂の途中に通じる小径があり、そこを通り、小径cを通過して巻石通りに出たものと推定される。
 翌日の日記には、そのときの多福院あたりのスケッチが載っている。多福院から小日向を眺望したスケッチの中に、「礫川鶯谷竹林山多福院之圖 小石川金富町金剛寺坂ノ上崖下ノ窪地昔鶯谷ノ名在り今福岡子爵邸崖ノ下也」の記述が見られる。状況から推察するに、その窪地は『江戸名所図会』の中の本堂とその西の神社の間に見られる窪地また小径であろうか。小径cの西側に位置する。

 2回目は、昭和16年(1941)9月28日である。「……(金剛寺)坂を上り左手の小径より鶯谷を見下ろすに多福院の本堂のみ、昔の如くなれど、懸崖の樹木竹林大方きり払れ……」、などとある。このとき、見下ろした場所は、小径aの西端の無名の階段坂の上あたりであろう。多福院は西隣になるのでよく見えたものと思われる。

 荷風の随筆『礫川徜徉記』には、鶯谷の話が日記『断腸亭日乗』よりも詳細に記されている。なお、『礫川徜徉記』が書かれたのは大正十三年(1924年)甲子四月二十日と記中にあり、関東大震災の翌年のことであろう。

  1. 「文化(の時代)のはじめより大田南畝の住みたりし鶯谷は金剛寺坂の中ほどより西へ入る低地なりとは考証家の言ふところなり」、とあり、太田南畝が住んでいたことの認識はあったことがわかる。
  2. 「嘉永版の江戸切絵図には、金剛寺の裏手多福院に接する処、明地(あきち)の下を示して鶯谷とはしるしたり。この日われ切絵図はふところにせざりしかど、それと覚しき小径に進入らんとして、ふと角の屋敷を見れば幼き頃より見覚えし駒井氏の家なり。坂路を隔てて……」、とあり、荷風はそのときには持参していなかったが『江戸切絵図』を所持していたことはわかる。また、この時にも鶯谷を訪れていたことがわかる。日記に記されている2回に加えて計3回鶯谷を訪れていることがわかる。
  3. 「鶯谷は即このあたりをいふなるべし。さるにても南畝が遷喬楼の旧址はいづこならむ」、と云っているので、南畝が居住していた遷喬楼の位置については不明と考えてよいのであろう。
  4. 大窪詩仏の『詩聖堂詩集』巻の十の「雪後鶯谷小集得庚韻」と題する記事の中に「遷喬楼は懸崖の上に在り」と記されている。このことから、遷喬楼は崖の上にあったことがわかる。
     大窪詩仏は南畝と交友があったようである(『ウィキペディア』大窪詩仏)。南畝は「詩は詩仏、書は米庵に狂歌俺、芸者小万に料理八百善」、または「詩は詩仏、三味は芸者よ、歌は俺」などといって、大窪詩仏を賞賛している(『ウィキペディア』大窪詩仏)。
  5. 多福院の西には新坂があり、「そこには稚き頃、大学総長浜尾氏、音楽学校長伊沢氏、尾崎咢堂の邸が門を連ねていた」、と記している。
     この中の伊沢氏とは、伊沢修二氏のことであろう。明治21年(1888年)に東京音楽学校(現・東京芸術大学音楽学部)の校長に就任している。米国に留学して音楽教育の指導を受けたルーサー・メーソンを招聘し明治維新後の音楽教育を確立した人である(『ウィキペディア』伊沢修二)。その音楽教育の中で、鶯の「ホーホケキョ」の鳴き声を取り上げ、結果として、鶯の鳴き声を音楽のメロディに合わせて歌い、聞く方向に導いた人と考えられる。別途取り上げてみたい。

 荷風は、考証家の考えや『江戸切絵図』の東都小石川絵図に基づいて、鶯谷は金剛寺坂の中ほどより西へ入り、小径aの西端、多福院よりの崖下と推定し実地検分していたことがわかる。これは、東都小石川絵図の空き地に「明地、此下ヲウグイスダニト云」と記されている「此下」を、空き地から見て南の崖下と推定したと解釈できる。その位置は、『江戸名所図会』の本堂の位置関係から推定すると、本堂の西になると思われる。
 しかし、荷風は、「さるにても南畝が遷喬楼の旧址はいづこならむ」ともいっていることから、推定地について懐疑的でもあったように思われる。
 紀行文「鶯谷~無名の階段坂」では、多福院は空き地から見て坂下となると判断し、鶯谷は多福院のあたりと推定している。

 永井荷風の研究書などを書いた作家・風景画家の松本哉(はじめ)の『永井荷風の東京空間』には、荷風が考えていた鶯谷の場所を推定したスケッチが残されている。これにより、荷風の推定地はより明確になり、小径cの西脇の細長い区画を鶯谷の場所として記している。
 『江戸名所図会』で金剛寺の絵を見ると、小径cのあたりの東側には本堂があり、西側には神社や実朝碑がある丘があり、その間に窪地か小径のようなものがある。荷風はそれらを鶯谷と見立てたのであろうか。
 また、金剛寺の敷地内を通る崖が北西から南東にわたって3筋あることが示されている。一番南側の崖は10mの高さで神田上水の北側を走っている。二番目は15mの高さで、金剛寺の敷地あたりでは丸ノ内線の北側を走っている。三番目は20mの高さで、金剛寺敷地の北側と多福院敷地の南側の境界、および武家屋敷の北側と小径aとの境界を走っている。
 崖が多いことは江戸名所図会から認識できる。また、グーグル航空写真でも、二番目と三番目の崖についてはそれらしいものを確認できる。荷風の日記に記されている小径aの西端から小径cに降りる階段は三番目の崖に造られた階段であり、『東京さまよい記』の無名の階段坂でもある。この階段もグーグル航空写真でも確認できる。


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