我家の戦後80年
個人会員 木下 武
前理事長の木下顧問から、メルマガ9月号のエッセー「戦友からの手紙」への感想を兼ねて、木下家の戦争体験について寄稿いただきました。
記
「戦友からの手紙」(メルマガ25/9月号)を読ませて貰いました。中国大陸での戦闘が如何に過酷であったか知ることが出来ました。一方、横須賀は海軍の中心地であり、私の父親が志願した海軍の戦いは、中国本土の戦闘より太平洋海域や群島を舞台とした軍艦や航空機の争いで、海軍士官や兵卒には別の苦労が有ったように感じます。
父親は、津軽海峡に面した下北半島の先端部、大間の隣村・下北郡風間浦村蛇浦生まれで、小学校卒・函館中学を目指すも祖父の病気で海軍に志願し、横須賀市田浦の海軍志願兵養成校(編注1)に入学した。
そこで、艦船の動力機関兵(エンジン操作)として兵隊時代を続行、途中除隊し、三井家に奉職し、伊豆下田市にて三井家ヨット船の運航に従事した。
小生5歳ごろ、支那事変が拡大し、再度入隊・横須賀在住するも昭和16年12月開戦時には下士官兵として南方への輸送船護衛に勤務、ラバウルで空襲に遭っている。戦況悪化、昭和19年頃には、米軍の本土上陸を想定し東京湾入口の房総半島先端の館山基地に勤務して、米潜水艦の湾内潜航を阻止した。
昭和20年8月15日終戦。同月20日頃には横須賀基地に戻り、ポツダム中尉(編注2)を拝命し、戦後数年以上を不慣れな古物商を経て、数年後やっと志願兵からベース勤務になり、観音崎の防潜網(対ソ連潜水艦)の監視所に元海軍士官と勤務した。
これで、小生も受験勉強に専念でき、2浪を経て国立大に入学でき、関東学院卒の村山君と東横線で会い、男声合唱に踏み出す機会を得ました。
本年4月20日、満90歳、NPO法人産業 クラスター研究会顧問、せみと汐風の男声・混声の合唱団員。ゴルフ練習を週2~3回して老化防止をしている。
(追記)毎年夏季を迎えると、昭和19年夏休みを思い出す。
上野駅午後2時半、青森行き普通列車が動き出す。夜半仙台を過ぎ、朝方盛岡を過ぎ、少し寝て八戸に近づくと出稼ぎのオバアさん達、方言で会話分からず。小学校3年でも少しも寂しがらず。戦争の緊迫感で祖父との疎開は怖がらず。
こんな事を書いているが80年以上過ぎているなあ!!!
編注1:水雷学校の事と思われる。海軍水雷学校は横須賀市田浦地区にあった旧海軍の養成機関です(下記Wikipedia参照)。水雷学校の場所は戦後関東自動車に払い下げられましたが、現在は海上自衛隊第2術科学校の敷地になっています。下に地域の終戦時の地図と現在のGoogle Mapを貼り付けています。


海軍水雷学校は、大日本帝国海軍の水雷術(魚雷・機雷・爆雷)指揮官・技官を養成する教育機関(軍学校)である。初級士官を養成する普通科、水雷術専門士官を養成する高等科下士官を養成する予科を設置し、海軍将校として必要な雷撃術・水雷艇や駆逐艦の操艦術・機雷敷設および掃海術・対潜哨戒および掃討術の技能習得、魚雷・機雷・爆雷・防潜兵器・索敵兵器の開発研究などを教育する。また、海軍通信学校が開校するまでは、水雷学校で無線電信技術の習得と研究を推進した。(海軍水雷学校:Wikipediaより)
編注2:ポツダム進級(ポツダムしんきゅう)とは、大日本帝国陸軍・大日本帝国海軍が1945年8月15日のポツダム宣言受諾後に、軍人の階級を一つ進級させたこと。退官手当や恩給をなるべく多く貰えるように行った。ポツダム進級で昇進した階級は、ポツダム少尉、ポツダム少佐など、「ポツダム」を階級の前に入れた俗称で呼ばれる。(ポツダム進級:Wikipediaより)
以上