「戦友からの手紙」 戦死した叔父を偲んで

「戦友からの手紙」 戦死した叔父を偲んで

個人会員  仲田 清


 一通の手紙をご紹介します。

 叔父は終戦一ヶ月前に中国で戦死しましたが、翌年の昭和21年に叔父の戦友から長兄である父に送られてきたものです。数年前に実家の書類を整理していて、見つけました。便箋18枚に達筆で書かれたその手紙には入隊から戦死までの5年間の記録が淡々と綴られていました。戦争を知らない世代の為に文字起こしして甥姪たちに配りました。

 戦後80年の節目に、戦争の実態の一端を知って頂ければと思い、長文ですが全文をご紹介します。名前は仮名にしましたが、原文にできる限り忠実に旧仮名遣いや旧漢字をそのまま使っています。

 以下は、手紙を読むにあたっての予備知識です。
“叔父は昭和15年に招集され高知236連隊に入隊、そのまま中国南部の戦線に。幹部候補生試験に合格し一時帰国後翌16年に再度主計将校として戦線に復帰。その後中国南部を転戦し、終戦1か月前の昭和20年7月に南京への移動中に戦死しました。手紙をくれた戦友は叔父と一緒に幹部候補生⇒主計将校と経歴を共にした同期生です。”


― 手紙本文 ―


「拝啓 秋も漸く更けて参りました。
ご一同様、益々ご清祥の御事とお慶び申し上げます。
さて復員以来早速お伺ひ申し上ぐべき處、帰宅後の煩雑と特に御住所不明の為今日迄延引致しましたる段ひとへに御詫び申し上げます。
相原君御書簡に依り御住所判明早速一筆申し上げる次第です。

さて四郎殿終戦直前御武運甲斐なく御戦死遊ばされ御一同様の御胸中、さぞかし御愁傷の御事と心よりお悔やみ申し上げます。

入隊以来当時迄、兵、候補生、経理部将校各時代を通じ終始離れる事なく時々起居を共にし苦楽を頒けあって参りました私には色々盡(つ)きない思出に心痛むのみで御座居ます。

広東よりの数百里に亘る大轉(てん)進作戦、然しそれ迄大小幾つかの作戦に参加しながら部隊最后のこの作戦にあんな事になろうとは思ひませんでした。

見習士官として再び渡支(編注:支=支那=China)するや四郎殿は第三大隊、私は第二大隊附として同じ聯(れん)隊に二人の同期生として経理官たる出発を始めたのでした。

赴任五日にして始めての経験たる「セツカン」作戦(注1)に参加、共に各大隊の給養の責を一身に担って当時張り切って出発したものでした。それは昭和十七年五月でした。殆んどこの作戦終了した八月頃、四郎殿は連日の過労の為か不幸腸チブス(注2)にかかられ入院致した事も御座居ますが、幸い大したことも無く全快され原隊に復帰されました。

これ迄は、同聯隊とは云え大隊が異ればお会ひする事も稀でしたが第二、三大隊が直後、湖北省蒲折(兵陽北方)(注3)に共に警備するやうになり十七年九月~十八年二月の間四郎殿は糧秣委員、私は被服酒保委員として机を並べ、宿舎も共に生活致しました。

当時現地自活が強化されねばならぬ状況でありながら、附近には物資乏しく二、三千の兵の給養は頗る困難とされて居りましたが、糧秣委員としてこの現地自活に関する一切の責任を一身に負はれ、附近の農耕の指導見返り物資の運営、食糧の自製設備の設立に又遠く危険を冒して出張され物資の交流をはかるなど、縦横に活躍され部隊の完全なる自活を確保し、聯隊長、大隊長 始め幹部、そして兵一般より厚き信頼と賞讃を浴びて何をするにも期待され喜ばれると同時に、主計としての地歩を築き上げ見習士官ではあり乍ら立派な将校として所謂「幅」を効かせる主計となって居られました。

その間の日夜をわかたぬご奮闘振りは今もまざまざと眼前に浮かんで参ります。そうする中に任官されいよいよ主計将校として益々重味を加えられて来たのでした。

其后警備地を異にしましたが月に一二度は会ひましたし、仕事の都合で連絡其他で常に深く交はって居りました。

爾来幾多の作戦に参加(大隊に主計は一名なる故如何なる作戦も缼(か)かしたる事なし)敵前給養に弾雨を冒して幾多危険に身をさらしつつ戦って参ったのでした。

いよいよ部隊の運命を賭した長駆桂林迄の大作戦、はた又広東へ通ずる打通作戦(注4)等、昭十九・五より昭二十・二頃迄約一年に亘る派遣軍未曽有の大作戦の日夜を頒(わ)かたぬ追撃、攻撃の苦労、又米機に依る連日の攻撃を受けての進軍は誠に言語に絶するものがありました。この作戦で部隊将兵はその辛苦の為、目は落ち肉はこけ戦死、戦病死の為部隊は半減する様な難作戦で御座居ました。

その間我々主計は部隊の給養といふ大任務の外に、直接戦闘に関係のない不急人馬(弱兵、行李駄馬)の指揮の命を受け常に第一線部隊に遅れて追及したものでした。通常後方部隊と云ってゐました。

處がこの後方部隊たるや常に弱い半病人と馬ですので、狭い中国の道は一列行軍ですし、二三百人、百四五十頭の人と馬で行軍長圣一粁(キロ)以上に及びそれが健兵ならまだしも今云ったやうに弱兵ですので思ふやうに道ははかどらず、常に本隊に遅れて地図もなく只本隊の為してゆく道路標識一つを頼りに、雨の日も風の日も昼も夜も一同泥んこになり、人間の顔をしたものは一人もなく、おまけに戦闘力のない部隊へもって来て敗残兵や、後方攻撃部隊に悩まされ、更に空より目標になり易い馬を連れてゐるので飛行機の恐怖にさらされつつ数知れない危険に、或は人も馬も弾雨下各個前進(列にならず一人々々一駄々々距離を置いて走る)に、迂回に、空地の敵におびやかされ、病者の一人をも落伍させずに必死に部隊に追及する行動の拘束された戦斗力のない後方部隊の泣きたいやうな辛苦を一年に亘り四郎君も私も経験したのでした。

戦闘本位の軍の陰の部隊として糧秣弾薬の運搬に、病者の保護引率に、敵中を戦闘力なしで行動する歯がゆさ情なさは身にしみて味はったのでした。

第三大隊より既に第一大隊附に轉(てん)じて居りました四郎殿は第一大隊後方部隊長として小生は第二大隊後方部隊長として共に各々二、三百人百四五十頭の人と馬を指揮し列を連ねて、「今日はやられるか、明日はやられるか」の危険な綱渡りを一年に亘り演じたのです。

だが、この作戦も無事に終り、又又、一、二大隊別れて広東西南方沿岸に今度は、米の上陸に備へるべく原始的な戦術の錬磨と陣地構築に日を送り、再び困難なる現地自活に苦労をされて居りました。然し何と云っても若いものの集り、体だけは元気ですし、苦労に対しても元気に愉快に処理せられて居りました。それは昭二十年三月~五月の間でした。

此処で二十年(昨年)五月部隊は再び、南支那海岸より事もあらうに北支青島附近への転進を命じられ、然も敵中を作戦しながら突切って先ず南京附近に出るべく進撃を開始しました。

広東を出発、敵地に入るや、再び連日連夜の戦闘の連続で、又又四郎殿も私も夫々第一第二大隊後方部隊の指揮を命ぜられ、前記同様の日夜が始まった訳で御座居ます。

危険とは云え、夫々苦境を脱出しつつ、列を連ねて共に元気に旅を続けて居りましたが、終に一日あんな事になり余りの突然で驚いた始末です。

それは昨年七月でした。江西省「カン州」(注5)に於て次の前進を準備し再び行動を起こしましたが、同日天険に拠る敵にはばまれ丸一昼夜戦闘は膠着状態になりまして、我々後方部隊は第一線直後に戦闘の進捗を待って一夜を明かした事でした。その晩が永久の御別れになる最后の晩であり然も何の因果でせうか行動は共にしても部隊が異るし、夫々部隊の責任者ですので、作戦中同一場所に枕を並べた事はなかったのですが、その晩に限り丁度私が四郎殿待機場所を探し「ヤーどうだ」から始まり、色々と語り、夕食も共にし、その晩は始めて同じ藁を布いて寝た事でした。家のない処でしたし、前は戦闘して居りますので、後方部隊は第一、第二、第三大隊の順に行軍形態のまま停止してその晩を明かしたのでしたが、四郎君と私は路傍の大きな松の木の下に当番兵の持ってきた藁をしいて毛布をかぶり満天の星を眺め乍ら色々愉快に語りつつ寝たのでしたが、この会話が最后にならうとは全く夢にも知らず今思っても感無量で御座居ます。

その翌日の夕戦死されたのでした。(日附等記したる手帳はその后の終戦のドサクサ時紛失し、全く申訳なく存じております。)

共にした最后の晩の会話でフト思ひ当る事がありますのでお知らせいたします。
とにかく四郎殿も私もこの後方部隊といふものについての難儀話から始まった会話でした。色々話す中、ふと四郎殿は次の事をしかもしんみりとした調子で云われました。

「田中よ、主計團記事(経理学校発行の主計将校の機関誌)を読んで見ても、今迄主計が野戦で死ぬるのは主計本来の任務(給養、與)の為に死ぬるのより、別任務を課せられた場合、即ち後方部隊の指揮とか患者の護送とかしよる場合に戦死することが多いねや。」

と。通常我々野戦にある身は、今日をも知れぬ身に「死」の話題はめったに口にしないものですが、あの晩妙にしんみりとふとこんな事を切り出した四郎殿は確かに明日の事が虫を知らされたと後で思はざるを得ませんでした。

話がしんみりして参りましたので私は一度は「そんな死にかたが多いやうじゃねや。」と一度は相槌を打ちましたが話題を替えて朗らかな話をして共に笑い乍ら藁をかぶってねた事でしたが・・・・・。

その翌朝敵の退却につれて我々も列を連ねて本隊を追求いたしましたが何といっても本隊は戦闘の為に身軽に出来て居りますので我々との距離は開き加えてものすごい炎熱は、我々の率ひる弱兵の行軍を遅らし、次第々々に夕に近づいたのでした。その晩の本隊の宿営地を聞かされて居りましたので我々はとにかく夜に入っても本隊位置に追いつかねば戦闘力のない後方部隊のみでは単独に宿営出来ない悲しさ、必死に歩いて居りました。

丁度、仲田君の第一部隊後方部隊の直後を続いて居りました私の第二大隊後方部隊は落伍者続出の為次第に遅れ、その日の昼頃には既に仲田君の第一大隊を見る事の出来ない程距離はへだたって居りました。次第に薄暗くなる頃、私はやっと聯隊本部宿営地に追及、聞けば第一大隊も第二大隊も宿営地はまだ一、二里前方との事、又既に先程仲田君の一大後方は此処を通過して前進したとの事を聞き私も更に前進を続けたのでしたが、約二粁前進した處の山の合間で前方に銃声を聞き、なおも前進すると第一大隊後方部隊の最後尾が停止してゐるのに追ひついたのでした。すると、その約約一粁程前でこちらに向かって、チェッコ機銃(注6)と迫撃砲の音がしますので聞くと、第一大隊後方の先頭が突如右の山から射撃されてゐるとの事、然も宿営地は予定よりさらに二、三里も前方らしいとの事。今や、我々後方は山間の谷間で敵に袋のねずみにならんとしてゐたのでした。

いよいよ前進不能となるや、第一大隊後方は聯隊本部位置迄後退すると前から云って来ましたので、後に続いた第二部隊後方部隊より狭い小道を回れ右して後退したのでしたが、私は部隊を後退させて置いて、仲田君の退ってくるのを待たうと、立って居りましたが、次々と後退する部隊が切れて後が続かず、よく調べて見ると、第一部隊後方部隊は既に射撃されるや前半分は退くに退かれず(特に駄馬の行動は狭い道で思うやうにならず)前へ走り、後半分が後へ退いた事が判り(行軍長圣一粁半)とにかく前半分は前の本隊へ、後半分は後の聯隊本部位置へ退いた事がわかり、前と後は夜暗には入りますし連絡がとれないままに両分されたのでした。とにかく一時も早く本部へ連絡し戦闘部隊を出してもらうべく急ぎその處置を取りまして夜を明しやっと連絡がとれるやうになった時、仲田君戦死の報に驚いたのでした。

仲田君は部隊追求中部隊の先頭を乗馬で前進して居られたそうで、夕方に突如右の山より急射され胸部に弾を受け「やられた」の声と共に昏倒されて小さい流れに落ちられたそうですが、弾は心臓では無く肺だったそうで出血多量の為亡くなられたやうで御座居ます。

このさわぎに前述の通り全く戦闘力のない部隊、二分されて連絡が絶たれた訳です。丁度その時その前方更に二粁の地点で一ケ小隊程が停止して居り後のこの銃声を聞いて駆けつけて来てくれましたが、その時は既にこの始末で仲田君を収容し、一大隊後方の前半分を護衛して本隊へ追及してくれたのでした。とにかく現場は両側は小高いハゲ山に挟まれた一本道で、射撃されれば所詮處置のない處です。

その時の模様は聞いたものです。

とにかく、部隊主計の重鎮として聯隊長大隊長よりの信任厚く、当時聯隊長(編注:小柴俊男大佐でノーベル物理学賞の小柴昌俊さんの父親)は涙を流され仲田君の為に歌迄読まれて居りました。

思へばこの時の戦闘が終戦迄最后のものであっただけにかへすがへすも惜しまれてなりません。

其后、他部隊より交代の主計が参りましたが、余りにも仲田君の業跡が大きいだけに部隊中一同、一兵に至る迄「仲田主計居りせば・・・」と常に何かにつけ皆言って居たものです。

とにかく後方部隊といふ編成は作戦の為とは云へ無理な事でした。私なども戦闘力なきが為に、一倍頭を悩まし如何にして一兵一馬を安全につれてゆくかに苦労したものです。射たれたたかれもういかんもういかんといふ境地は数知れず、不幸にして仲田君はその絶えざる危険の犠牲になられたのでした。部隊が予定の位置に宿営して居れば之な事がなかったとも思ひます。余りにも長距離の非武装部隊の単独行動の結果にこんな事になってしまいました。

仲田君の事についての部隊よりの報告と異なる点があるかも知れませんが、従来の仲田君の人間と腕の眞價を賞讃し、そして惜しむ余り部隊として当時模様を斯々(カクカク)御報告した事と存じますが、私は入隊以来常に親しくして戴いた関係上、又、当時近くに居りました関係上知り得る限りの真相をお知らせする次第です。

とにかく、全ての色々の想ひ出はとても書き表はせません。又何時か直接お目にかかってお話申し上げる時もあると期待して居ります。

充分書き盡せない處は何卒お含みお願ひ申し上げます。

仲田君は実行力の強い方でした。これと思った事は何としてもやりぬく不屈の実行力と真面目さは主計として、部隊将兵に無から有を生ぜしめて食はし、着せ、住はす事に完璧の腕と自信を与へたものでした。

当時のものは全て、私たちは特に何か業務上の困難に行きあへば「仲田が居たらナー」と語り会ったものでした。軍隊生活五年間一つの不可避な一時代、然も徒労に帰した期間ではありましたが、何と云っても過ぎ去った悲劇として徒らに見送る事の出来ぬ胸にうづく出来事で御座居ます。

機会がありましたら私も是非お伺ひして四方の御話を申し上げたいと考へて居ります。

色々と長年一方的に御世話になる許(ばか)りで戦友として何も盡す處なくあのやうになりましたのも我々戦友甲斐のなかった故とかへすがへすも御霊前にお詫び申し上げたい気持ちで御座居ます。

長々と要領を得ぬ事を竝べたてましたが、想ひ出せば色々盡きずあれやこれやとまとまりませぬので誠に意の如く認めず読みにくい事と存じますが不悪(あしからず)御了承下さいませ。

甚(はなは)だ御報告が遅れまして誠に申訳ない事で御座居ます。

何卒御追善専一に遊ばされ度、遅ればせ乍ら書面を以て取敢へず御悔み申し上げます。

敬具

昭和二十一年十月二十七日

   仲田 太郎 様

   田中 一郎」

注記

注1:セツカン作戦 (元資料:marc73.hatenadiary.jp/entry/20120830/1370962922 15年戦争史)
浙江省と江西省にまたがる地域の飛行場を破壊し、米軍機の日本本土爆撃を阻止するのが目的とされた。
昭和17年5月~9月の間、第11軍(40師団他)が西から、第13軍が東から侵攻し、中国軍を撃破したが、日本軍が通り過ぎた後は再び中国軍が戻った。要は日本軍の兵力では広い中国を面で占領することは無理ということ。なお、本作戦の真の目的は浙江省金華周辺の蛍石産地の占領にあるとの説もある。
第11軍の侵攻ルート:5月30日に南昌から東進を開始。6月5日に臨川、6日に東郷が陥落、16日に鷹潭占領、翌6月17日には貴渓陥落。南昌南方地区で日本軍が占領した地域は6月中旬以降、中国軍第九戦区の反撃により日本軍が順次撤退し失地を回復している。6月下旬に入って戦列を整え進攻を開始し、7月1日、横峰で東進してきた第13軍と合流。8月下旬になって、日本軍は浙かん鉄道のレールを撤去し、各地の飛行場を破壊し、各所で掠奪を行いながら撤退を開始し蛍石産地の中心金華まで後退。

注2:腸チフス
この浙カン作戦の後半に、731部隊による細菌戦も実施され、ペスト菌、コレラ菌、パラチフス菌が使用された。それを知らされていない日本兵も多くの損害が出た。ひょっとしたら叔父もこれにやられた可能性が有る。

注3:湖北省蒲折(兵陽北方)
赤壁の戦いで有名な、現在の湖北省赤壁市の旧名。湖北省省都の武漢と、湖南省岳陽の中間の市。兵陽北方とあるのは、岳陽北方の間違いと思われる。

大陸打通作戦

注4:打通作戦(=大陸打通作戦)
 1944年4月17日12月10日の間実施された日本陸軍史上最大の作戦。インドシナ半島への連絡路確保と、中国内の米軍航空隊基地の排除を目的としたもので、個々の戦闘では勝利したが、作戦の目的を達成することなく、終了した。第11軍は駐屯地の湖北省蒲折から南下し、湖南省長沙、桂林などを落としながら、広東地区迄南下し、作戦終了後は広東地区海岸の警備に就いたと推察される。

注5:江西省「カン州」
贛(かん)州、香港の北北東約300kmに位置し、江西省南端の市。5月に広東を出発し、贛(かん)州に着くまでに、直線300kmの距離を60日前後かかっている(5km/日)訳で、如何に障害の多い過酷な行軍で有ったかが想像できる。因みに近代の歩兵行軍速度は24km/日と云われている。236連隊は贛(かん)州からさらに約300km北上した江西省省都の南昌で武装解除されている。

注6:チェッコ機銃
旧チェコスロバキヤ製のブルーノZB軽機関銃の事。高性能で軽量かつ故障の少ない軽機関銃で、自国の他各国に輸出された。中華民国も輸入の他国産化も行った。