二つの津久井の由来

 NPO法人設立20周年記念行事の一環で、相模原市西北部にある城山ダム発電所を見学することになった。それ故に、城山ダムについてWebサーフィンをしていたところ、津久井に関する興味ある伝承が見つかったので紹介したい。

城山ダム発電所

城山ダム
城山ダム (【ウィキペディア』)

 城山ダムは、神奈川県相模原市緑区、相模川本川に建設されたダムで、神奈川県、横浜市、川崎市、横須賀市の共同施設である。
 目的は相模川の洪水調節、横浜市・相模原市・川崎市及び湘南地域への上水道・工業用水の供給である。
 また、発電も目的の一つといわれる。神奈川県営城山発電所(最大出力25万kW)は日本初の大規模な純揚水式発電所として1965年(昭和40年)に建設され、夜間電力により185m下の城山ダム湖(津久井湖という)から境川の本沢ダム湖にくみ上げ、昼間の電力消費の増大時に水を落下させて発電している。揚水発電所は電力会社が主体となって運営されることがほとんどで、城山発電所のように地方自治体による例は極めてまれである。
 ダム天端を国道413号が通過しており、城山大橋とも呼ばれている。国道16号及びJR横浜線 橋本駅等の相模原市中心部へ通じる主要幹線道路となっている。ダムが幹線道路に使われる例は全国でも珍しい、といわれる(城山ダム – Wikipedia)。

城山とは

筑井古城記碑
城山頂上、津久井城址に建立された筑井古城記碑

 ところで、なぜ城山なのであろうか。かって八王子市に居住していたことがあるが、その由来については知らなかった。そこで、ウィンドウサーフィンを始めたところ、いろいろな資料が現れたのである。
 城山という山があり、その頂上に津久井城址がある。津久井城は別名筑井城。この津久井城は山城であったので城が存在した山を宝ヶ峰といったが、のちに城山と呼ばれるようになった、といわれる。津久井城址には、相模原市指定有形文化財の「筑井古城記碑」があり、そこに「築井古城、相の築井の県宝ヶ峰に在り」の記載が見られる。

注1)相:相模国の略称。
注2) 筑井の県:江戸時代初期の1691年(元禄4年)に、この地域を支配した幕府代官山川貞清によって正式に愛甲郡および高座郡から分離され、津久井県と称することとなった。江戸時代を通じて地域区分の単位として「県」を称した全国で唯一の例であったが、1870年(明治3年)、当時津久井県を管轄していた神奈川県が小田原藩と「掛合」(協議)の上で民部省へ伺いを申し出たことにより津久井郡と改称された(津久井郡 – Wikipedia)、といわれる。廃藩置県の前年に廃止された唯一の例でもある。

筑井古城記碑

 筑井古城記碑は、説明版によると、城主内藤氏の家臣、島崎氏の末裔で、当時の根小屋村名主の島崎律直(ただなお)により文化13年(1816)頃に建立されたもので、津久井城の地形や沿革、内藤氏の系譜の一説、建碑の由来等が記されている。題額者は白川少将朝臣(松平定信)、撰者は大学頭林衡(たいら)、書者が国学者屋代(源)弘賢(ひろかた)、そして碑文を刻んだのが広瀬群鶴と、制作には当時の一流名士が関わっている。相模原市のWebサイト(「筑井古城記碑」)によれば、根小屋村名主の島崎律直(しまざきただなお)で従兄弟である国学者小山田与清(おやまだともきよ)を介して依頼された面々である。

 この石碑の建立日付は不明であるが、その撰文(石碑の原案作成)は文化13年(1816)といわれる。撰者は大学頭林衡(たいら)であるが、「古城記」の文章の本当の作者は、林大学頭の門下筆頭の高弟、岡崎慊堂(こうどう)といわれる(『相模原市立 城山公民館』「城山めぐり」「第14回 戦国の山城・津久井城 その五、(sagamihara-kng.ed.jp/kouminkan/shiroyama-k/kanpou/tanteidan/rekisimeguri2.html))。

筑井古城記碑説明版
筑井古城記碑説明版

 筑井古城記碑には、次のように記されている。

 筑井古城記        大学頭林衡撰 白川少将朝臣題額 源弘賢書
 築井古城、相の築井の県宝ヶ峰に在り。宝ヶ峰介立すること百余仭(じん)、相水の陰(みなみ)に聳え、上岐(かみわか)れて双丘と為る。東丘に飯綱祠あり、其の西丘を古城と為す。塁壁の址儼(げん)として存す。其の始めて築く者築井太郎次郎義胤と曰う。県と城とは氏に因む。北条氏の時、左近将監内藤景定これに居す。大和守景豊、六郎右衛門景友を生む。皆北条の良也。景友、角右衛門景次を生む。亦父祖の風有り。北条氏亡びて景豊終わる所を知る莫(な)し。
 阿部侯正勝、景友の勇武を聞き、延(ひ)きて幕中に置く。軍興る毎に賓客(ひんかく)を以って従い、健闘して陣を陥れ、向う所皆奇捷(きしょう)有り。主人を佐佑(さゆう)して能く大封(たいほう)を開く。其の二子をして仕えしむ。長は貞次家老に陛る。季は豊展(とよのぶ)。豊展、定次・重次・定高に歴事す。定高卒(しゅつ)す。正盛幼なり。豊展に命じてこれに伝たらしむ。心を尽くして輔翼(ほよく)し、以って克くその封を襲しめる。正盛既に立つ。大叔某平かなる能わず。豊展を誣(し)いるに、欺罔(ぎもう)を以ってし、これを逐(お)う。豊展の母は植村侯家政の従母也。故に往きて茲に依る。景次の後、是に於いて分かれて両家と為る。
 初め豊展の亡ぶるや其の臣馬場佐渡、島崎掃部(かもん)留まりてその邑に居ること二百余年。世(よよ)両家と臣主の礼を講じて衰えず、頃者(けいしゃ)掃部の裔律直、その事を纝述(るいじゅつ)して、朝土源弘賢に因りて請いて曰く。直の父宋蔵、常々故君の世己に遠く其の墟日(きょひ)にやぶれ我が子孫の漸く其の由る所を遺(わす)れんことをおそるる也。石を古墟に樹(た)てて、以って来世に告げんと欲す。未だ果たさずにして死す。実直にこれを傷む。願わくば為にこれを書せよと。嗚呼北条氏関左に盤拠すること五世、八国を併呑し、百城を雄視界す、当時此れと相較ぶれ者(ば)、甲越の鷙悍(しかん)を以ってすと雖も、猶加うること有る能わず。其の疆域(きょういき)の大なるに至りては、惟(ただ)毛利氏と北条氏有るのみ。故に其の猛将林立し、頸卒雨の如ければ、自ら以為、子孫千載不抜の業也と。其の君昏闇にして奸臣柄用せらるに及ぶや、桀(けつ)ごう自ら恣(ほしいまま)にし、一旦にして自ら覆滅を取る。是れ憐れむべき也。
 余嘗(かっ)て西上し、小田原を過ぎ、謂う所の早雲寺なる者を観、其の五世の丘壟(きゅうろう)を訪うに、さん削夷滅、殆ど的知すべからずして、名・官・諡号(しごう)の記寥々乎として尋丈の間に、駢列するのみ。傷古の感、行道の人皆これ有り。当時国滅びるの後、其の将相大臣の故君に託し、以ってぶ仕に登る者、邦国に顕列す。而して墳廟の依稀落莫、此に至は何ぞや、其れは果たしてこれを忘れたるか。
 顧うに彼の佐渡、掃部なる者、固(もと)より皆陪台の微にして子孫又民伍に鳴る。豈に其の故君は藉(よ)りて軒輊(けんち)を為す者ならん哉。乃ち独り臣僕の礼を二百余年の久しきに執る。而して律直父子又能く文を請い、以って来者に済(な)すなり、抑(そもそも)彼の内藤氏の其の臣僕を結ぶは、其れ亦北条氏の諸臣を持つに異なる也夫。是れ皆喜ぶ可き也。遂に書してこれを与う。阿部侯今は福山城主、植村侯今は高取城主、景次八世の孫景弘、豊展七世の孫景明、見に二侯に仕えて倶(とも)に顕要に居ると云う。

ぶらり城山01-津久井城址 : TEIONE BLOG - 平山 貞一 (exblog.jp)

津久井城の築城と津久井の由来

 石碑の1段目に「其の始めて築く者築井太郎次郎義胤と曰う。県と城とは氏に因む」という記載が見られ、津久井城は築井(津久井)太郎次郎義胤によって築城されたことがわかる。
 「県」とは、前述の通りで江戸時代に存在した「郡」相当の地域名。江戸時代に、この辺りは津久井氏の領地であり、「津久井県」と呼ばれていた(津久井郡 – Wikipedia)。
 天保12年(1841年)成立の『新編相模風土記稿』津久井県の項に、「当県領主、沿革の大略、鎌倉の頃は築井太郎二郎義胤、愛甲、高座両郡の内を領して、相模川の南岸、宝峯に築城しており、所領の地を号して津久井領と呼へり」(新編相模国風土記稿 第5輯 三浦・津久井郡 – 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp))とあり、津久井県に関わりがあることもわかる。
  なお、「津久井県」は、明治3年(1870)に「津久井郡」と改称された。昭和30年(1955)4月に津久井城のある地域のほとんどが津久井町となり、昭和40年(1965)に城山ダムおよび津久井湖が完成している(津久井町 – Wikipedia)。
 しかし、平成18年(2006)3月に津久井町・相模湖町が、平成19年(2007)3月に藤野町・城山町が相模原市に編入され、津久井郡は消滅した(津久井郡 – Wikipedia)。また、相模原市が政令都市となった2010年4月に津久井町の名称は消えて相模原市緑区となった(津久井町 – Wikipedia)。
 今は、津久井城址と津久井湖にその名を留めるだけとなった。

三浦一族の津久井氏

津久井氏系図
津久井氏系図

 『新編相模風土記稿』津久井県の項に、「津久井は三浦家、津久井二郎高行は、(三浦)大介義明の弟、義行二男なり」とあり、ここで初めて津久井城の築城者である筑井義胤は三浦一族であることがわかる。

 津久井家の系図を調べると、右図のようになる。
 津久井家は津久井二郎義行に始る。三浦義継の次男で、衣笠城の最後の城主、三浦大介義明の弟である。三浦郡津久井郷?(現・横須賀市津久井)に本拠地を構え、その地名から「津久井(筑井ともいう)」を名乗ったといわれる。
 その後、津久井家を継いだのは次男の高行であり、義通・高重と続く。高重のとき、承久の乱が起こり、高重は朝廷方に付き京に向かったが、敵の鎌倉方に気付かれ途中で討ち取られ、津久井の惣領家は断絶したと、いわれる。
 累代の菩提寺は津久井にある東光寺である。館のあった場所は、東光寺の西南の「荒屋敷」と呼ばれる高台である。

 長男の為行は矢部を名乗ったといわれる。横須賀に大矢部・小矢部があり、義明の次男・義澄が三浦家の家督を継ぐが、義澄は大矢部に城を築いている。義澄は弓の名手だったといわれるので大矢部・小矢部という地名が関係しているのであろう。しかし、為行が義澄の本拠地の地名を名乗るのは不明である(三浦一族・津久井氏: 三浦一族城郭保存活用会 (cocolog-nifty.com)。)。
 一方、津久井城の築城者の義胤は、別名為行といわれ、津久井家の系譜の為行と推定されている。しかし、古文書や遺物等が見つかっておらず推定の域を出ないといわれる。それ故に、二つの津久井の関係も伝承の域を出ないのであろう。


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