時候:春の季語 凧

時候

春の季語 凧

 今年の正月、車で三浦海岸通りを通過した折に、砂浜で凧を揚げている人を2人ほど見かけた。そこで、駄句を1句、後日にまた1句。

  正月やたこのあがるる海の上
  【正月に蛸は膳にあがるが、あがったのは凧であろうか蛸であろうか】

  正月やたこは揚がりて震えおり
  【震えは寒風による寒さからであろうか風による揺れであろうか】 

 子供の頃、上州の空っ風の中、田の畔で凧揚げをしたのを覚えている。その地区には名物のイチョウの大木があり、それよりも高く揚げることを競ったが、しかし何といっても、自作の凧が揚がったときの爽快さは忘れがたい。
 細い丸竹を割って使ったように記憶しているが、それで長辺1メートルほどの凧を作り、荒縄、ロープだったかもしれない、を紐として使った。大凧を吹き上げてくれる風はあるだろうか、新聞紙は破れないだろうか、紐は切れてしまわないだろうかなどなど、揚がらない要因をいろいろ考えていたが、あっさりと揚がってしまったのには喜びや驚きとともにいささか拍子抜けもしたのだった。

凧の季語

 凧揚げは正月の風物詩なので意外な感じもするが、凧は春の季語である(凧(たこ)三春 – 季語と歳時記 (kigosai.sub.jp))。
 江戸時代初期の歳時記『増山の井』には、「春の風は下から吹上げるので、凧がよく上がる」とある(凧(たこ)三春 – 季語と歳時記 (kigosai.sub.jp))。この時代は旧暦を使用しており違和感はなかったであろう。

凧の由来と語源

 凧という漢字は、国字で、風と巾(ぬのきれ)の合字であり、いか【紙鳶・凧】、いか‐のぼり【凧・紙鳶】、はた【凧】ともいう(『広辞苑第六版』)。
 風と布きれの合字ということから連想すると、凧とは当初は紙ではなく布きれが使われ、それが風の中を漂うイメージを描いていたように思われる。
 紙鳶とは、形が烏賊(いか)に似るからの名で、「紙鳶のぼせし空をも見ず(『好色一代男』)」(『広辞苑第六版』)、という。
 2月のある日、平成町のスーパーの駐車場にいると、高層のマンションビル群の間に大凧が揚っていた。誰が揚げているのだろうと眺めているうちに、大凧ではなくて鳶が両翼を開いて滑空する姿であることに気付いた。あまりにも凧の姿に似ていた。そして、「紙鳶」と表記する意図が分かったような気がした。凧はまさに紙の鳶が滑空する姿である。

 凧を「タコ」と呼ぶのは関東方言で、関西方言では「イカ」と呼ばれ、18世紀後半の方言集『物類称呼(ぶつるいしょうこ)』には「イカノボリ」の例も見られる(凧/紙凧/たこ – 語源由来辞典 (gogen-yurai.jp))。
 『ウィキペディア』には、凧を「タコ」と呼ぶのは関東の方言で、関西の方言では「紙鳶(しえん)のぼり」、特に長崎では「ハタ」と明治初期まで呼ばれていた(凧 – Wikipedia)、という。

凧の歴史

 最初に凧を作った人物は、中国の春秋戦国時代の魯の魯班とされている。後代に工匠の祭神として祭られる。魯班の凧は鳥形で、3日連続で上げ続けることができ、軍事を目的としたものだったといわれる(凧 – Wikipedia公輸盤 – Wikipedia)。公輸盤は魯班の別名である。

 中国では、漢代から凧は「紙鳶(しえん)」と呼ばれ(凧/紙凧/たこ – 語源由来辞典 (gogen-yurai.jp))、日本では、平安時代中期に作られた辞書『和名類聚抄』に、紙鳶紙老鳶(しろうし)と記されている。
 14世紀頃から交易船によって、南方系の菱形凧が長崎に持ち込まれ始めた。江戸時代の17世紀には、長崎の出島で商館の使用人たち(インドネシア人と言われる)が凧揚げに興じた。南蛮船の旗の模様から長崎では凧を「ハタ」と呼び、菱形凧が盛んになった。これは、中近東やインドが発祥といわれる菱形凧が、14~15世紀の大航海時代にヨーロッパへと伝わり、オランダの東方交易により東南アジアから長崎に広まったものとされる。

富嶽三十六景の中の江戸の凧
富嶽三十六景の中の江戸の凧揚げ
(『ウィキペディア』凧より引用)

 江戸時代には、大凧を揚げることが日本各地で流行り、江戸の武家屋敷では凧揚げで損傷した屋根の修理に毎年大金を費やすほどだった、という。(凧 – Wikipedia)。
 文化遺産オンラインのWebサイトによると、右の浮世絵「富嶽三十六景」には「江都駿河町三井見世略図」とある。絵は、駿河町の越後屋の来客の視点、すなわち、低い位置から見上げるように、富士山、凧、屋根の修理をする屋根屋の身動きを描いている、という。
 屋根の上で凧揚げをしている様子が窺われる。江戸の町の近くには凧揚げのできるような広い空き地がなかったのであろう。そのために屋根に上がって凧揚げをする次第となって屋根を損傷したものと思われる。凧揚げと修理をする屋根屋を一緒に描いているところに北斎の洒脱さが窺える。(冨嶽三十六景《江都駿河町三井見世略図》 文化遺産オンライン (nii.ac.jp))。

凧に関する逸話

土佐凧
 「土佐凧」は戦国時代、長宗我部氏が籠城戦(攻城戦)で糸の風切り音で敵を威圧したり、戦場を測量したりするために使ったことが始まりと伝承されている(凧 – Wikipedia)。

大凧を使った名古屋城の金鯱泥棒
 大凧に乗って名古屋城の金鯱を盗もうとした盗賊の話が知られている。この話は江戸時代に実在した柿木金助という盗賊がモデルになっているが、実際には柿木金助は名古屋城の土蔵に押し入ったに過ぎないといわれる。ところが、1783年に上演された芝居『傾城黄金鯱』(けいせいこがねのしゃちほこ)によって金鯱泥棒として世に知られるようになった(凧 – Wikipedia)、という。

大凧を使った焼き討ち
 忍術書『甲賀隠術極秘』(芥川家文書)によると、源義家による奥州合戦(後三年の役)金沢柵責めのとき、服部源蔵という芥川流の小柄な人物がいた。大凧を作らせ、大風が吹いている中、乗せて、空中より火を降らして、焼き討ちにしたという記述が残されている(絵図が見られ、凧の複数の日の丸状の仕掛けから火を出す)、という。
 横山光輝の漫画並びにそれを原作とした特撮テレビドラマ『仮面の忍者 赤影』などでは、忍者が大凧に乗って偵察や戦闘を行う描写がみられる、という。(凧 – Wikipedia)。

紙幣で作った凧
 戦間期*)のドイツではハイパーインフレーションにより煙草1箱が数億マルクもする状態になり、紙幣は価値をほとんど失ってしまっていた。こうした背景から、当時の子供たちは紙幣を貼り合わせて作った凧で遊んでさえおり、写真も残されている(凧 – Wikipedia)、という。

注*)戦間期: 第一次世界大戦終結から第二次世界大戦勃発まで、つまり、基本的には1919年から1939年までの時代(戦間期 – Wikipedia)。

フランクリンの凧
 1752年、ベンジャミン・フランクリンは雷を伴う嵐の中で凧をあげ、凧糸の末端にワイヤーで接続したライデン瓶により雷雲の帯電を証明するという実験を行った。また、雷の電気はプラスとマイナスの両方の極性があることも確認したといわれている。
 この命がけの研究結果によって、フランクリンはロンドン王立協会の会員となった。この逸話は有名になったが、検証実験や同じような実験をしようとして多くの死者が出たため、現在はあまり紹介されない(ベンジャミン・フランクリン – Wikipedia)、という。
 ライデン瓶とは、静電気を蓄える装置で、コンデンサーの一種。オランダのライデン大学で発明されたためこの名があり、平賀源内もライデン瓶を用いたといわれる(ライデン瓶 – Wikipedia)。

参考文献

  1. Webサイト(凧(たこ)三春 – 季語と歳時記 (kigosai.sub.jp)
  2. 『広辞苑第六版』 新村出 岩波書店 2008年1月
  3. Webサイト(凧/紙凧/たこ – 語源由来辞典 (gogen-yurai.jp)
  4. Webサイト(凧 – Wikipedia
  5. Webサイト(公輸盤 – Wikipedia
  6. 『倭名類聚鈔』 20巻 源順 撰 出版者:那波道圓 元和3 [1617]年
  7. Webサイト(冨嶽三十六景《江都駿河町三井見世略図》 文化遺産オンライン (nii.ac.jp)
  8. Webサイト(戦間期 – Wikipedia
  9. Webサイト(ベンジャミン・フランクリン – Wikipedia
  10. Webサイト(ライデン瓶 – Wikipedia

(出)


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