ウグイスの語源説考

 鶯という漢字がさす鳥は、日本語と中国語で異なる。
 日本では、スズメ目ウグイス科ウグイス属の鳥をさす。一方、中国では、スズメ目コウライウグイス科の鳥をさし、両者とも美声を愛でられる鳥であるが、声も外見も異なり、分類上の類縁はない63) 。ただし、現代の中国では、「黄鸝(こうり)」または「黄鳥」と表記される。
 しかし、前述の穿ぐい栖語源説によると、日本語のウグイスと中国語の鶯(おう)は、「鶯は央に通ずる」というモチーフから、命名の発想が共通であるという。ここで、「鶯は央に通ずる」とは、鶯は中央と接点をもつとか関係をもつ、ということである。

茂みを穿つウグイス
茂みを穿つウグイス(https://wildart.in/cettia-bush-warblers-allies-cettiidae/bush-warblers/)65)から引用

 日本語では、①前述の穿ぐい栖語源説の要点2によると、「ウグイス」は「穿ぐい栖」と表現し、「穿ぐ」とは中央内部を穿つことと意味づけされ、②また、ウグイスは雅な鳥といわれ、雅とは、『広辞苑』によれば、宮廷風であること、都会風であること、優美で上品なことである64) 。①,②の両者とも、意味の上から、ウグイスは中央に通じていることがわかる。

 一方、中国語では、下記に示すように、いくつもの例が見られる。

  1. 鶯の字形から
    『日本語語源辞典』の「うぐひす」の項によると、鶯の上部の「鶯から鳥を取り除いた部分」は、栄(えい)、営(えい)に配されていて丸く取り囲むという音符であり、中央内部という点で、日本語のウグイスと共通した発想である53) 、といっている。
  2. 雅から
    中国語の「鶯(おう)」は、『詩経』の小雅・伐木篇の鳥とされており、雅は、白川静の『詩経雅頌1』によれば、祭祀や儀礼の行われる貴族社会の詩であり66) 、意味の上から中央との接点をもつ。よって、鶯は中央に通ずるといえる。
  3. 単語家族説から
    藤堂明保の単語家族説では、字形が異なっても字音が同じならば何らかの意義の共通性があるといっており、「鶯」と「央」は音読みでは同じであり、その観点から、「鶯は央に通ずる」といえる54) 。 
  4. 有名な故事から
    1. 四書五経の一つ『春秋左氏伝』の昭公17年に、「郯(たん)の君が魯にご機嫌伺いに来た。魯の昭公は、例によって酒宴を催し、その席上で、「あなたの祖先の少皞(しょうごう)氏は、官吏の役にすべて鳥の名をつけたとか聞いていますが、どういう理由ですか」、と質問した。「その当時は、こうした例はよくあったもので、別に珍しいともいえません。お尋ねですから説明いたしましょう」と、郯の君はこたえ、その理由をこう説明した。「少皞氏の父の黄帝時代には雲に瑞兆があったというので、官吏の役に雲の名を付けました。……。私の先祖の少皞氏が立つと、鳳凰という鳥が飛んできました。それで鳥を万事の基準として、官吏の名にも鳥の名を付けた次第です。暦を正す官を鳳凰氏、春分秋分を司る官を玄鳥氏、夏至冬至を司る官を伯趙氏、立春立夏を司る官を青鳥氏、立秋立冬を司る官を丹鳥氏、……という類で、……。孔子はこのことを聞き、郯の君を師として、いろいろな故実を学んだと伝えられている」67) 、と記されている。
       青鳥は、立春から立夏の間中国にいる春の鳥でその代表的な鳥が鶯であるため、青鳥は後に鶯の異名とされる。また、青鳥は国の中央の宮殿にいる少皞氏が名付けた名前なので「鶯は央に通ずる」と言えるであろう。
       
    2. 唐の玄宗皇帝は宮殿の庭で黄鶯を見ると、その鳥を「金衣公子」と呼んだといわれる。『開元天宝遺事』に、「明皇毎於禁苑中見黄鶯常呼之鳥金衣公子」、と記されている。黄鶯は鶯の異名で、また金衣公子も鶯の異名である。玄宗皇帝のいる宮殿は唐の都にあり68) 、そこで鶯が見られたということから、鶯は央に通ずるといえるであろう。
       
    3. 白居易の漢詩(諷喩詩)「上陽白髪人」に「宮の鶯」という鶯の異名が見られる。「宮鶯百轉すれども愁いて聞くを厭う」という詩句において詠われ、「宮殿の庭園にいる鶯」といわれるが、舞楽を誘いに来る宮殿住いの宮女を宮の鶯に喩えたのであろう。
       上陽白髪人と喩えられる人は詠われたとき、60歳で頭は白髪になっていたといわれる。16歳で玄宗皇帝に長安城に迎えられたときには、「臉(かお)は芙蓉に似て胸は玉に似たり」と形容される美容を誇っていたが、楊貴妃の目に留まり、洛陽の離宮「上陽宮」に軟禁される。そういう宮女の数は100人にも達したという。漢詩「上陽白髪人」はその悲哀を諷喩詩として詠い、時の為政者に知らせたものとされる69) 。
       この宮の鶯も「宮殿の庭園にいる鶯」ということから、鶯は央に通ずる。
       
       余談になるが、清少納言は「鶯は、……、九重の内に鳴かぬぞいとわろき(鶯は宮中では鳴かないので大変面白くない)」76) 、といっているが、上陽白髪人は「愁いて聞くを厭う」といっていることから、その影響を受けて、ウグイスは宮中では鳴かないと考えたのではないかと思われる。
       
       また、平安時代の末期に成立した『今昔物語』巻24第26話に、村上天皇が「宮の鶯、暁に囀る」と題して漢詩を作ると、文章博士の菅原文時が続けて同じ題名で漢詩を作った。それを見て、村上天皇はどちらが優れているかと、菅原文時に詰問したという説話が記されている70) 。
       また、『平家物語』の厳島御幸の条には、「梢の花色は衰えて、宮の鶯老いたり」71)とあり、仏教の無常観を説く一節として知られているが、その中の「宮の鶯」は平清盛によって鳥羽殿に軟禁された後白河法皇の隠喩として捉えることができる。
       これらの例に見られるように、日本では、宮の鶯を天皇や将軍に擬えるようになる。
  5. 鶯という漢字が鳥の名前となる経緯から
    1. 『詩経』小雅・桑扈(そうこ)篇に「交交たる桑扈、鶯(おう)たる羽有り」10)という詩句がある。ここでは、鶯は羽の色が美しいという形容詞である。
    2. ところが、後漢の辞書『説文解字』に、「鶯は鳥也」72)という説明が付され、鶯は鳥の名前ということになる。しかし、その経緯が明らかにされるのは遥かに下って清の時代である。段玉裁が『説文解字注』で明らかにしたのである72) 。
    3. まず、鶯(おう)という鳥の原典といわれる『詩経』小雅・伐木篇に「鳥鳴くこと 嚶々(おうおう)たり」と、鳥の鳴き声が記されている10) 。
    4. その鳴き声「嚶々」から(おう)という漢字が作られる72) 。
    5. 『詩経』にも見られる倉康(そうこう)注1)の鳴き声は嚶々と聞こえる。それ故に、倉康に異名として鸎(おう)と名付ける。『詩経』小雅・伐木篇の鳥も鸎と呼ばれることになる72) 。この命名は鳴き声から名前が付けられているので鳴き声語源説である。
    6. この経緯のキーポイントである倉康の鳴き声は、後漢の『文選』志の漢詩「帰田賦」に「王雎鼓翼,倉庚哀鳴;交頸頡頏,關關嚶嚶」(王雎(おうしょ)注2)翼を鼓し、倉康は哀し気に鳴き、頸(くび)を交えて頡頏(きっこう)注3)し、關關(かんかん)たり嚶嚶たり)、と詠われている73) 。
    7. そして、「鶯は鸎に通じる」ことから、鶯も伐木篇の鳥の名前となる72) 。こうして、鶯は鸎に通じ、央にも通じることになる。
    8. 『説文解字』も「帰田賦」も後漢時代のものであるのに、清の時代まで「鶯は鳥也」という『説文解字』の謎が解けなかったのは、「帰田賦」が忘れられていたからであろうか。現在では、「帰田賦」は「令月、時は和し」の詩句から令和の元号の基になった漢詩として知られている。
       因みに、鶯が鳥の名前として『説文解字』で説明されたのは西暦100年、その由来が解明されたのは1815年、解明に実に1700年の歳月を要している。

       注1)倉康:コウライウグイスの異名。
       注2)王雎:ミサゴ
       注3)頡頏:飛び上がったり、舞い降りたりすること
       
    9. 前述の段玉裁の由来説明とは別に、『詩経』小雅・伐木篇の鳥は鶯(おう)という名前が記されていないばかりでなく、「春」という季節も記されていないという謎があった。
       ところが、唐の時代になると、よく知られている杜牧の漢詩「江南の春」の冒頭の詩句には「千里鶯啼いて緑紅に映ず」と謳われ、春の情景の中で鶯が鳴いている様子が描かれている75) 。
       この謎に対して、国文学者の渡辺秀夫は、漢の時代から唐の時代までの漢詩の流れを調査・研究した結果から、「初唐には、鶯(おう)は伐木篇の鳥の名前で季節は春ということが定着したこと」を明らかにされた74)
  6. 鶯遷の故事から
    鶯遷(おうせん)」という言葉がある。「鶯が暗い谷間を出て高い木に移ること。転じて、進士の試験に及第する意。昇進・転居などした人を祝う言葉として用いる」77) 。この言葉は晩唐の『尚書故実』に記されているが、白居易などが高官に就いた中唐の時代に生まれたものと思われる69) 。
     科挙は随の時代に生まれた制度であるが、盛唐までは貴族の力が強く科挙の合格者が高官に就くことはなかった、といわれている。しかし、安史の乱で国力の衰えた唐(中唐)は積極的に科挙出身者を高官に登用するようになった78) 。
     進士の試験に及第するまでは、受験生を幽谷の暗い谷間にいる鶯、すなわち谷の鶯とみなし、及第すると都の宮殿勤めとなる。このことから、鶯遷という言葉は「鶯は央に通ず」ということを明確に示す言葉である。

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