エピソード:絆(東日本大震災に遭遇して)

個人会員 伊澤 俊夫

 2011年3月11日午後3時少し前、休憩時間の準備で入れたコーヒーカップが揺れた。

会社の近くの道路 
会社の近くの道路 

 突然社内の警報機がなり、工場や近隣の会社の警報がなった。思わず部屋から飛び出して隣の事務室に移動した。その時、窓の外に隣家のブロック塀がゆっくり横倒しになる光景が目に飛び込んできた。

近隣農家のブロック塀倒壊
近隣農家のブロック塀倒壊

 今まで経験したことのない揺れと音、近くにあった書棚が倒れ書類が飛び出してきた。事務室にいた女子社員に直ぐにヘルメットをかぶって、グラウンドに移動するように伝えた。自分も近くにあった来客用のヘルメットをかぶって直ぐにグラウンドに避難した。この間5分ぐらいであったか。グランドでは製造部長がヘルメットをかぶり、スピーカーマイクを握って職場毎に点呼確認、安全動作指示を出していた。各職場から、徐々に人が集まってきて、1回目の情報確認15分で鋳造工程以外の設備停止と人員集合で安全確認ができた。その間も地鳴りや建築物からの鳴動が伝わってきて何時収まるのか?不安と恐怖の中で、代表責任者として心構えを正に肝に据えた。

事務所 棚の転倒
事務所 棚の転倒
構内 街路灯傾斜
構内 街路灯傾斜

 場所は茨城県、後日この地の震度は6強であったことを知った。東日本大震災である。固定されていない棚類は転倒し、多数の治工具類が床に散乱して一部破損した。床置きの小型加工機械は横滑りや転倒で修理が必要になった。停電・断水が続き1週間の操業停止を余儀なくされた。幸いなことに人的被害や大きな物損はなかった。停電・断水による操業停止期間中の一週間は、会社近くに住んでいる社員の人達から入れ替わり立ち代わりで寮生への炊き出し支援があり、私を含めて独身者7名が大変お世話になった。この大震災体験後、社員が家族のような距離感になった。

 2010年6月横浜ゴムの役員任期満了で、茨城県のタイヤ金型の製造子会社の責任者を打診され、平塚市からの単身赴任をお受けした。アルミ金型鋳造加工技術は未経験の分野であったが、モノづくりの仕事に未練と興味があったので、2年間で横浜ゴムのタイヤ金型の中核会社とする計画を策定し活動を開始した。
 私の着任する約1年前、2009年に某アルミ鋳造・金型加工会社からタイヤ金型製造部門の事業買収を行い、技術部門・工場及び関連施設と人員50名の受入れを行っていた。その部隊を活用し横浜ゴム本体の金型設計部門・製造部門・調達部門・金型管理技術機能を統合して、タイヤ金型のSCM(サプライチェーンマネージメント)のレベルアップを図ることを目標とした。
 本社から、総務担当役員と経理担当役員を受け、買収企業から技術・生産担当役員を配置した。
着任後直ちに始めた事は、私の考えていることを全員にしっかり伝えること。50名ぐらいの小さな集団であれば、毎日全員とコミュニケーションを取ることができる。一人一人の仕事の内容を聞きながら、現場に立って希望や悩みを聞く。仕事の場以外でも独身寮での単身住まいの生活を活かして(エンジョイ)して、多くのコミュニケーションの場を作った。食堂に喫茶コーナー・寮生のためにドリンクコーナーを作った。その他お誕生日会などを開催し、社員自由参加で楽しめるようにした。10月には、社員の家族に職場の見学会を実施した。翌年からはヨコモ祭として、従業員・家族だけでなく地域の人にも開放する社員手作りの活動を続けている。この活動は横浜ゴムの環境活動「千年の杜」プロジェクトとも位置付けられ、その後の震災被災地―大槌町での「いのちを守る森の防波堤」の活動の苗木育成供給基地となった。
 歴史のある金型製造会社で仕事をしてきた50名の社員の皆さんは個々人の高い技術力と自分達の仕事のやり方、そして製品の品質に高いプライドをもっていた。しかし今後、子会社ながら横浜ゴムの一員として全社の企業理念に基づいて行動してもらえるように、社員の皆さんにお願いしたのは「明るく・楽しく・元気よく」全員参加の活動であった。
 会社の人事制度や処遇について本社規則に準じながら具体的に説明し、理解を求めながら新会社の運営に全員参加で取組むことが必要であった。「金型設計部門・製造部門・調達部門・金型管理技術機能を統合して、タイヤ金型のSCM(サプライチェーンマネージメント)のレベルアップを図ること」の目的・目標に対しては、目標を共有化し、実現するための課題を全員参加で設定し、スピードのある行動が必要であった。そのためには、徹底的なコミュニケーションで身近な課題から実行すること。「整理・整頓」の活動であった。先ずは、見えている事から毎日全員と話して、聞いて。同じ認識に立つのにおそらく私の時間が一番必要であった。赴任後半年を経過してもなかなか先が見通せなかった。目標達成の為には、新会社の規模を少なくとも100名以上にして、不足している人材を本社部門からの配転や新規採用で補充する必要があった。
 50名の在籍者を核にするために、毎日全員と話をして、色々なイベントを仕掛け、その中で各自の考えている事、気持ちを理解できるようになるには私の時間が一番必要であったか?

絆

 人の採用については、地元・縁故を優先し、出身者のいる茨城大学や地元高専などに求人に出向き、教授に会社の活動について説明に出かけた。家族のパート職員も少しずつ増やしていった。漸く本社部門との業務の整理統合計画が動き始めた。そして2011年3月11日 東日本大震災に被災、全員で恐怖の時間を共有してから従業員の意識が大きく変わった。家族になった気がした。日々の声掛けに気持ちが入っていった。信頼した。その後1年半社長として勤め、従業員人数も120名となり、当初計画した目標を達成した。任期を終了後も顧問としてサポートしながら、そして今仕事を離れても絆が繋がっている。社員が家族だから結婚や孫の誕生そして別れも含めて短期間ながら沢山の物語がある。企業は人なり。忘れてはいけない。またの機会に書き残しておきたいと考えている。 

以上


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