テクニカルノート「コンピュータの歴史(2):コンピュータの世代」

その3 第3世代(1964年~): 集積回路(IC)

 本稿は、連載中のコンピュータの世代についての3回目、論理回路として集積回路(IC)を用いたコンピュータの世代について解説します。

 1964年4月に、IBMのシステム/360が発表され、コンピュータは集積回路の時代へと突入するとともに、世界のコンピュータ業界は再編成されていく。
 トランジスタ・コンピュータの名機といわれるHITAC5020の開発のチーフであった村田健朗氏は、5020は5,000ゲートを超えており人手で開発できるコンピュータとしては限界であるといわれたことがある。一方、グロッシュの法則(性能は価格の2乗に比例する)は、当時はまだ生きており、コンピュータの複雑化・大規模化は要請されていた。そういう時期にICの時代に突入したということの意義は極めて大きいと思われる。
 すでにWebサイト(コンピュータ性能に関する法則(2)ムーアの法則 (cluster.jp))で述べたように、ICは、ムーアの法則やデナード則などにより、集積化とその効果のトレンドについて将来予測ができるようになったことが、半導体産業やコンピュータ産業の発展の原動力となった。そして、コンピュータは急激に普及したといわれる。

(1)集積回路の概念の考案

 集積回路(IC)を考案したのは、レーダー科学者ジェフリー・ダマーで、イギリス国防省の王立レーダー施設で働き、1952年5月ワシントンD.C.でそのアイデアを公表した。しかし、ダマーは1956年、そのような回路を作ることに失敗した(『ウィキペディア』集積回路)。

(2)集積回路とは

 集積回路(IC)とは、シリコン単結晶などに代表される半導体チップの表面に、不純物を拡散させることによって、トランジスタとして動作する構造を形成したり、アルミ蒸着とエッチングによって配線を形成したりすることにより、複雑な機能を果たす電子回路が作り込まれている電子部品である(同上)。このようなICはモノリシックICといわれる。
 ICには、現在使われている前述のようなモノリシックICのほかに、初期に使われていたハイブリッドICがある。ハイブリッドICは、一枚の絶縁基板上に、個別に作られたコンデンサや抵抗、トランジスタなどの半導体素子を一つ一つ貼り付け、それらを金属配線で結んで一体として機能するようにしたもの(Webサイト『IT用語辞典』)、である。

(3)モノリシックICの発明

 モノリシックICは、米国の2人の研究者により発明された。テキサス・インスツルメンツのジャック・キルビーの特許「Miniaturized electronic circuits」は1959年2月に出願され、1964年6月に特許となった。一方、フェアチャイルドセミコンダクターのロバート・ノイスの特許「Semiconductor device-and-lead structure」は1959年7月に出願され、1961年4月に特許となった(『ウィキペディア』集積回路)。
 キルビーの発明により、一枚の半導体基板上にすべての素子を集積するという画期的なアイデアのモノリシックICの時代に入ったが、素子間を接続するために細線をボンディングしていた。
 ノイスの発明は、プレーナ方式と呼ばれ、素子間の相互結線をシリコン上に蒸着されたアルミニウム薄膜でおこない、実用化の観点からは格段に高い価値を持っていた(Webサイト『日本半導体歴史館』半導体ICの発明)。

(4)軍事および宇宙産業によるICの利用と進化

 最初のICは1958年9月に製造されたが、コンピュータに使われるのは1963年以降のことである(『ウィキペディア』計算機の歴史(1960年代以降))。ミニットマンミサイルとアポロ計画は慣性航法用計算機として軽量のディジタルコンピュータを必要としていた。アポロ誘導コンピュータは集積回路技術を進化させるのに寄与し、ミニットマンミサイルは量産化技術の向上に寄与した。これらの計画が1960年から1963年まで生産されたICをほぼすべて買い取った。これにより製造技術が向上したために製品価格が40分の1になり、それ以外の需要が生まれてくることになった(『ウィキペディア』集積回路)。

(5)電卓のIC利用と貢献

 民生品として大量のICの需要を発生させたのは電卓だった(同上)。
 1963年、イギリスのBell Punch and Sumlock-Comptometer 社が開発したAnita Mark8が世界初の電卓といわれる。この電卓は機械式計算器の歯車を真空管に置き換えた形をしており、図体は極めて大きく、重量も16キロもあり、なおかつ非常に高価だった。しかし、電子式のため機械式のような騒音が出ることはなく、かつ計算速度が速いことから大きな反響を呼び、その後の電卓開発のきっかけとなった(History of calculator (dentaku-museum.com)、『ウィキペディア』電卓)。また、同時期に米国Friden社の EC-130があり、こちらはトランジスタ式であった(『ウィキペディア』電卓)。
 日本のメーカも本格的に電卓の開発にとりかかり、1964年3月に早川電機(シャープ)が最初の電卓CS-10Aを発表する。トランジスタ式であった(『ウィキペディア』電卓)。
 当初大量のトランジスタを使用した電卓は小型化のためにICの使用が避けて通れなかった。このためシャープは1966年10月に世界最初のIC電卓CS-31Aを開発・発売し、翌年12月にはCMOS ICを使用したCS-16Aを開発・発売する(初期の IC/LSI電卓 (dentaku-museum.com))。
 トランジスタからIC、ICからLSIへと至る半導体の発展の歴史と歩調を合わせる形で、電卓の発展が進行した。特に、従来のメインフレームやミニコンピュータの主流がTTL(Transistor-transistor-logic)やECL(Emitter-coupled logic)、すなわち高性能高消費電力のバイポーラICであったのに対し、後にパーソナルコンピュータで多用されるようになる低性能低消費電力のCMOS(Complementary metal-oxide-semiconductor) ICの需要を先導した(『ウィキペディア』電卓)。
 同時に1960年代後半から1970年代前半にかけて、電卓戦争と呼ばれる激しい価格破壊と技術革新による競争が行われた。従来は、軍事・宇宙産業の需要や高価なコンピュータ向けの需要が中心であったICに膨大な民需をもたらし、半導体産業を一段と発展させるとともに、日本の半導体技術の向上にも影響を与えた(『ウィキペディア』電卓)。

(6)メインフレームコンピュータのIC利用と新たなる展開

 メインフレームでのICの採用は、1964年4月にIBMから発表されたSystem/360シリーズで、単体のトランジスタをモジュールに集積したハイブリッド集積回路(IBMはソリッド・ロジック・テクノロジー(SLT)と呼んだ)であった(『ウィキペディア』集積回路)。また、主メモリは磁気コアである。
 あらゆる用途をカバーするファミリを形成する多くのモデルを用意し、小型から大型まで、事務用から科学技術計算用まで使え、小さいモデルから入って大きいモデルにアプグレードできるスケーラブルなコンピュータ・アーキテクチャを確立するとともにアーキテクチャと実装を分離した。汎用機と呼ばれる。
 24ビットのバイトアドレッシング、アドレスのベースレジスタ/インデックスによる2重修飾、32/64ビットデータ、8ビット文字コード体系(EBCDIC)など、斬新なアーキテクチャを導入するとともに、従来機のソフトウエア互換性を維持するためにエミュレーションを後にサポートした。
 システムの開発費は280億ドルといわれ、月に人を送り込んだアポロ計画の予算250億ドルを上回ったといわれるが、ビジネスとしては成功しIBMの市場支配の時代となった(『ウィキペディア』System/360)。
 価格体系は、グロッシュの法則に基づいた体系を取っていた、といわれる。 

(7)System/360用OSの開発と展開

 System/360用OSは、当初OS/360一つを提供する予定であったが、開発の遅れもあり、代替えとしてBOS・TOS・DOSファミリがリリースされた。その後、代替品は残すことになり、多数のOSを提供することになった。

  1. 小型機用OS:BOS (Basic Operating System、最小構成用、1965年〜)、TOS (Tape Operating System、磁気テープベース、1965年〜)、DOS (Disk Operating System、ディスクベース、1965年〜) が使用された。
  2. 大型機用OS(OS/360ファミリ):PCP(Primary Control Program、単一タスキング処理用OS、1966年〜)、MFT(Multiprogramming with a Fixed number of Tasks、固定された複数タスキング処理用OS、1966年〜)、MVT(Multiprogramming with a Variable number of Tasks、可変長の複数タスキング処理用OS、1967年〜) が使用された。
  3. タイムシェリングシステム(TSS)用OS:MITのMultics流のTSS/360が発表されたが、性能上の問題などから開発を中止し、代わりにTSO(Time Sharing Option)やCP/CMS(仮想マシン、Control Program/Conversational Monitor System)などが提供された。
  4. OS/360の開発の苦難は、フレデリック・ブルックスによる、有名な『人月の神話』(“The Mythical Man-Month”) に記されている(『ウィキペディア』System/360、『ソフトウエア開発の神話』)。

(8)米国のメインフレーム業界の状況

 当時の米国のメインフレーム業界の状況は、IBMを白雪姫に見立てて、「白雪姫と7人の小人」に喩えられた。7人の小人といわれたユニバック、ハネウエル、GE、CDC、RCA、NCR、バロースは、System/360に対抗してそれぞれの新シリーズの製品を発表した。(Webサイト『国立科学博物館技術の系統化調査報告 第2集』第3世代コンピュータ)。

  1. ユニバックはUNIVAC 1107をもとにしたシリーズとSystem/360の機械語サブセットを取り込んだ下位の9000シリーズを開発した。
  2. ハネウエルはIBM1401対抗機として開発したH200をもとにH200シリーズを開発した。IBM 1401のエミュレーション・ソフトウエアを備えて成功し、第3世代の到来を早めたともいわれている。
  3. RCAは1964年12月に新しいSpectra70シリーズを発表し、アーキテクチャをSystem/360互換にして、IBMより先にモノリシック集積回路を採用した。
  4. NCRは315を強化し、1968年3月にCentury 100、200シリーズを発表した。
  5. バロースはB5000の後継機B5500、B6500を開発しシリーズ化した。
  6. GEはGE600シリーズを製品化した。MITのタイムシェリングシステムMulticsに使われたこともあり、GE-600シリーズの受注は好調に滑り出した(『ウィキペディア』GE-600シリーズ)。
  7. CDCは、スーパーコンピュータCDC6600と互換性のある科学計算用のCDC3000上位機を開発しシリーズ化した。また、ビジネス用のCDC3000下位機を開発しシリーズ化した。最後に開発された下位機CDC3500はICを用いたが、他の機種はトランジスタ式であった(『ウィキペディア』CDC 3000 series)。

(9)日本および欧州におけるメインフレーム業界の状況

 日本においても、System/360に対抗して日本電気、富士通、日立製作所、東芝、三菱電機、沖電気工業が第3世代コンピュータの新シリーズを発表し、技術提携あるいは通産省プロジェクトの成果を利用して開発を行った。
 日本電気はハネウエルと技術提携してNEACシリーズ2200を、富士通は通産省プロジェクトの成果と独自技術によりFACOM 230シリーズを、日立製作所はRCAと提携してHITAC 8000シリーズを開発した。技術提携に基づき開発されたシリーズにおいても、上位モデルは国産技術で開発するなどの努力が行われた。
 ヨーロッパでも、英国(ICL社)、西ドイツ(テレフンケン社)、フランス(ブル社)で開発が行われた。(Webサイト『国立科学博物館技術の系統化調査報告 第2集』第3世代コンピュータ)。

(10)スーパーコンピュータの状況

 1964 年 に、CDCはCDC 6600を出荷した。これによって当時最速であったIBM 7030を凌駕し、最速のスーパーコンピュータとなった。50台を売り上げ、世界で初めて成功したスーパーコンピュータといわれる(『ウィキペディア』CDC 6600)。
 CDCは、スペリーランドのユニバック部門にいたウイリアム・ノリスやシーモア・クレイたちが独立して1957年に設立した。クレイは、「スーパーコンピュータの父」と称され、スーパーコンピュータ市場を生み出した人物とされている(『ウィキペディア』シーモア・クレイ)。
 クレイ等は高速マシンを設計するにあたって、①周辺プロセサを導入し、CPUを演算に特化させることにより命令セットの単純化を図り、クロックを10MHzと高速化する。市場の他のマシンの10倍であった。➁CPUは10台の並行可能なユニットをもち、同時に複数の命令を実行することができる。今日のスーパースカラもしくはハイパースレッディング・テクノロジーとして知られている一般的な手法である。③周波数は10MHzであるが4相なので、実質的には40MHzで動作することになる。④浮動小数点演算を優先的に処理する、などの配慮をした(『ウィキペディア』CDC 6600)。
 その結果、浮動小数点演算は約1MFLOPS(1秒間に100万回の浮動小数点演算)という性能を示し、当時としては桁違いに高速であった。なお、CDC 6600はトランジスタ式であった。

 CDC7600は、CDC 6600 の後継機としてシーモア・クレイが設計したコンピュータであり、1970年代に向かうスーパーコンピュータ市場におけるCDCのシェアを伸ばすことに貢献した。このマシンは1969年に初めて出荷された(『ウィキペディア』CDC 7600)。
 周波数は36.4MHzで命令のパイプライン方式を採用した。6600の約10倍の速さであり、アセンブリ言語で書いたコードでは約10MFLOPSの性能を発揮し、理論上のピーク性能は36MFLOPSとされていた(同上)。このマシンもトランジスタ式であった。
 
 スーパーコンピュータILLIAC Ⅳは、イリノイ大学のダニエル・スロトニックが開発したベクトル型またはSIMD(Single Instruction Multiple Data)型と呼ばれ、浮動小数点演算を並列処理する方式の最初のスーパーコンピュータである。
 control unit (CU)と呼ばれるひとつのメインCPUが命令の流れを処理し、単純な “processing element” (PE、現在で言うところの実行ユニット) を複数配置して、演算を並行して実行するようにした。各PEは同じ命令をそれぞれ異なるデータに対して実行する。今日ではSIMDとして知られている手法である。
 ILLIAC Ⅳは当初256個のPEを想定していたが、最終的には64個のPEとなり、性能目標も当初は1GFLOPSであったが最終的にはピーク性能が150MFLOPSであった。それでも、その性能は当時の世界最高速であり、CDC 7600の二倍から六倍である。1965年に開発を始め、10年の開発期間を経て1975年に完全に稼働した(『ウィキペディア』ILLIAC Ⅳ)。

(11)ミニコンピュータの状況

 1960年代から1970年代にかけての最大の技術革新の1つがミニコンピュータといわれる。それによってより多くの人々がコンピュータを使えるようになったが、それは単にコンピュータが物理的に小さくなったからだけではなく、コンピュータ供給業者が増えたことも関係している(『ウィキペディア』計算機の歴史 (1960年代以降)、といわれる。

 PDP-8は、世界で初めて商業的に成功した12ビットミニコンピュータである。1960年代にディジタル・イクイップメント・コーポレーション (DEC) が製造した。1965年3月に登場し、5万システムを売り上げ、DECのPDPシリーズでも当時最も成功したコンピュータとなった。
 PDP-8シリーズは当初トランジスタ機であったが、IC化してより小型化され安価になり(『ウィキペディア』PDP-8)、1万ドルコンピ ュータと呼ばれた(『ウィキペディア』計算機の歴史 (1960年代以降)。また、最初のミニコンピュータといわれている(Webサイト『国立科学博物館技術の系統化調査報告 第2集』ミニコンピュータ)。
  
 OS「Unix」は、1969年、AT&Tのベル研究所にて、ケン・トンプソン、デニス・リッチーらによって、当初はアセンブリ言語のみで開発されたが、1973年にほぼ全体を高水準言語Cで書き直された(『ウィキペディア』UNIX)。UNIXはMITのMulticsの開発をリタイアしたメンバが、単純化して開発したOSである。「Multics」と「Unix」というOSの名称の対比の中に、そのことを見ることができる。
 PDP-7はUNIXが誕生したプラットフォームとしてよく知られており(『ウィキペディア』DEC)、その後UNIXがミニコンピュータで広く用いられるようになった(『ウィキペディア』UNIX)。

 汎用コンピュータでは対応できない新市場が存在することが明らかになり、バリアン・データ、データジェネラル(DG)、ヒューレット・パッカード(HP)、インターデータなど多くのメーカがミニコンピュータ市場に参入した(Webサイト『国立科学博物館技術の系統化調査報告 第2集』ミニコンピュータ)。
 日本でも、日立製作所からHITAC-10が1969年2月に発表され、続いて富士通(FACOM-R)、日本電気(NEAC M-4)、沖電気工業(OKITAC 4300)が参入した。さらに1970年には松下電器(MACC-7)、東芝(TOSBAC 40)が参入した(Webサイト『国立科学博物館技術の系統化調査報告 第2集』ミニコンピュータ)。

(12)小型ビジネスコンピュータおよびオフィスコンピュータの状況

 米国では、1970年代に入るとミニコンピュータをビジネス用途にも活用しようと独立系ソフトウエア会社が応用ソフトウエアを開発し、小型ビジネスコンピュータ(SBC)の市場が生まれた。ミニコンピュータの能力向上とともに1台のミニコンピュータで複数端末を管理するマルチワークステーションシステムが開発された。
 日本では、この分野はオフィスコンピュータとして、独自の発展形態を辿った。1961年2月にカシオがリレー式のTUC(タック)を開発しそのルーツとして発売し、日本電気(パラメトロンコンピュータNEAC 1201)、ユーザック(USAC 3010)が参入し、その後も富士通、東芝、日立製作所などが参入した。低価格と信頼性が重要であったため、1965年ごろにはトランジスタ化が行われ、1967年にはIC化が行われた。市場は1960年代末までに100億円規模、1970年代末までには1500億円規模と大きく成長した(Webサイト『国立科学博物館技術の系統化調査報告 第2集』オフィスコンピュータ)。


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