エピソード:私は現場を知らなかったのだ

個人会員 高木 晴幸

 東京オリンピックが開かれた昭和39年に横浜ゴムに入社し、次の年当時戦後最大と云われた不況に見舞われた。配属された平塚製造所の工務部では仕事が無く、毎日工場敷地内の草むしりをした。会社は「儲け出してなんぼ」が体に埋め込まれた。

 リーダとして仕事に油が乗ってきた年代と高度成長期とが重なり仕事に没頭した。昼は現場、夕方から設計、夜の10時過ぎから全員を集めてミーティング。終わるのは毎日12時。時々これから飲みに行くぞと街に繰り出した。世で云うモーレツ社員であった。
 ある時、部下の一人が「髙木さん、話があります」、そして泣き顔で「私には家族がいます」。ガツンと打ちのめされた。人間として人に寄り添うことの重要さを教えてくれた彼に今でも心から感謝している。「私は変わった」。

 昭和48年、初めて米国に出張した。為替固定相場最後の年であった。羽田からプロペラ機で飛立ち、アンカレジで給油し、ニューヨークに着いた。窓からそびえ立つ摩天楼が見えた。これがアメリカか、いよいよ1か月の1人旅が始まるぞと身震いを覚えた。
 次の日から工場見学 → 飛行機移動 → ホテル → 工場見学 → 飛行機移動と、毎日移動した。
 そして、見ること聞くこと、驚きの連続であった。アメリカの巨大な工場、コンベアーラインによる大量生産のすごさに圧倒された。工場で対応してくれた人達や町の人達は遠い島国から来た若者に皆大変親切であった。日本には、こんなものはあるかとチョコレートをくれたりした。今でも大変感謝している。

「私は現場を知らなかったのだ」

 45才の時、6工場と多くの協力会社を統括する部門に異動した。傘下の現場を順番に回りムダを徹底的に排除する活動(IE実践研)を立ち上げた。IE実践研を毎週毎週5年間(計千チーム以上)行った。
 IE実践研で運搬のムダ取りを行ったことがある。朝8時から夕方5時まで、電動車で部材を運ぶ人の後を駆け足で追いかけながら1分毎に何の作業をしているか、ムダはないかを記録した。昼休みや休憩時間にはその人の隣に座って、なんであの時あの部材を運んだの?」「なんであんなことをやっているの?」「困っていることはない?」などの質問をした。
 夕食後、データ分析、中間発表、メンバー懇親会。そして、2日目に改善案試行、まとめ、最終発表会(トップも参加)というハードな活動であった。

 実践研参加者は、1カ月以上かかった改善が2日間で出来たことに驚いたやれば出来るのだと思った。いままでやらされ感があったが、現場に立ち事実を知ることで自ら考え自ら行動した、との意見が出た。

 現場に立ち続けると見えてくるものがあった。現場の力学、現場の人達の喜び悲しみ自負心が見えてきた。それまで、私は20数年の経験から、私は現場を知っていると自負していた。しかし「私は現場を知らなかったのだ」と思い知らされた。百の議論よりも1つの実行、試行錯誤の繰り返し、が現場改善の王道です。そして実践研を繰り返すことにより人が変わり変化し続ける現場になった。


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