三度名前の変わった男
「舗装の桑原」から「下水の加藤」へ

個人会員(前副理事長) 加藤 幹雄

 私は生まれるときから問題がありまして、仮死状態で生まれ、お産婆さんが決死の努力をしたが反応なしで諦めましょうと置いた瞬間に「おギャー」と泣いてセーフになったとのことです。
 そんな訳で3歳までは発育不良で栄養失調状態であったようです。そうした影響か高校卒業まで身長は常に学年ワースト5以内で、急性肝炎やビタミン障害などを患い健康状態はよくありませんでした。戦後の混乱期で大学まで4.5畳に4人で生活する家庭環境もあったかもしれませんが成人してからは健康で80年以上の今まで色々ありましたが何とか過ごすことが出来ています。

 最近世の中で別姓問題が取り上げられているようですのでそれに関連した私の話をしましょう。
 私は男3人兄弟の次男として生まれましたが「楢原→桑原→加藤」と男で3回姓が変わっています。最初は小学4年生の時に「不良画家の親父に男3人育てられたらとんでもないことになる」と母親の英断?で両親が離婚し母親の籍に入り「桑原」となりました。
 兄弟は、学者の兄と獣医師の弟でしたので親戚筋からは母親の面倒は勉学に関係のない仕事の次男坊と決められてはいたので暫くは安泰だったのですが33歳で2娘の長女と結婚して嫁の父親に「加藤」の名を残さないと故郷に帰れないので頼むと拝み倒され「加藤」を名乗ることになりました。

 しかし、社会人となって7年、当時注目されていたアスファルト舗装に関しては試験舗装等数多くこなし、国を通して当時新設された日本大学交通工学科に数多くの実績例やデータを提供し道路全国大会での発表などで神奈川県の「桑原」は、その道では顔は知らないが名前は「知る人ぞ知る」存在になっていました。同僚や多くの先輩からは折角作り上げた「舗装の桑原」の実績が本人から離れてしまい職務上非常に不利になるから回避した方が良いとの助言を数多くいただきました。 それでも毎日浮かぬ顔の義父母を見るよりは仕事はまた実績を重ねれば何とかなると言うことにし「加藤」を名乗ることにしました。

 ところが市町村が事業主体となっていた下水道事業の普及率が上がらないため国家事業として幾つかの市町村をまとめて県が処理する流域下水道事業を神奈川も実施することになりました。
 本庁に新しい組織「下水道課」ができ、そこに異動させられました。通常は同じ事業を担当するのが常識ですので名簿や異動発表からは「桑原」の名前が突如消えたので、「首になった、死んだ、重病だ、民間に行った」などの声が多く聞こえてきて、道路関係で大手を振っていた「舗装の桑原」は下水道関係者からは誰にも知られていない初年兵「加藤」になったわけです。

 下水道事業は全くの素人で大学の「上下水道」の授業で知るだけの知識でした。本来ならば中堅の技術者であるべき状況なのに見聞きすることは殆ど初めてのことで緊張から最初の3ヶ月間ぐらいは全身に湿疹ができていました。新しい分野なので前にも増して忙しく帰宅は常に午前様寸前の激務の部署でした。
 しかし、新しいものは経験の有無に係らずスタートラインは同じなので動き出したら後は本人の気持ち次第です。
 後に日本の建設業界の先端技術になったシールド工事も当時はまだよちよち歩きの状態で、全国各地でトラブルが発生し進まない工事が多くありました。そうした問題の解決にも携わって貴重な知識を得たり多くの問題に対応して新しいことを学んだ結果、下水道においても道路と同じような状況になり、気が付けば「舗装の桑原」ほどではないですが「下水の加藤」も知る人ぞ知る状況を得ることが出来て、20世紀最後の1999年春に定年を迎え役所を去りました。幸いに健康状態に問題なく今でも先輩後輩と楽しく交流させて頂いています。

 別姓問題は名前が変わることで社会生活上に不利が出る(特に女性は)とのことが潜んでいると思います。私の経験からは人間はそんな小さなことを考えるより巡ってきた状況に最大の努力をして対処することです。
 成人して自分で物事を進められる大人の「おごりとエゴ」が先んじて親の別姓により将来ある子供たちに混乱を起こす可能性のある状況を作る権利はないと考えます。
 私は小学4年の時に姓が変わりましたが友達は子供なりに理解していて、遊びにうまく使うことはしましたが「いじめ」は全くありませんでした。大人は自分のことは回復できますが子供たちが戸惑うことや希望をなくすようなことは御避け頂きたいと思います。

 私の30代から40代のころの話です。今でも「楢さん」、「桑さん」、「かとチャン」と三通りの呼ばれ方をされて楽しい余生を送ることができています。

以 上


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