横須賀製鉄所の創設の起源と経営

横須賀製鉄所シリーズ

横須賀製鉄所の創設の起源と経営

 本稿は、明治33年(1900年)11月に発行された栗本鋤雲(じょうん)著『匏庵遺稿(ほうあんいこう)』の「横須賀製鉄所経営の事」という条の現代語訳である。
 人に勧められて記載したものといっているが、横須賀製鉄所の創設に直接関わった著者ならではの記述が見られ、どういう経緯で横須賀製鉄所の創設に至ったか、あるいは小栗上野介が創設をどのように考えていたのかが具体的によくわかる。また、小栗上野介の「土蔵付き売家」の名言、すなわち横須賀製鉄所の経営哲学が語られている。この哲学は、熟友の栗本鋤雲が上野介を想うあまりの作り話といわれたこともあるが、今は名言として知られている。
 しかし、この書籍は、難解な漢字や熟語を使っているだけでなく、文章も著者自身が言っておられるように記憶のままに記されているようで読むにも現代訳をするのにも非常に難解である。意訳を織り込むなど、丁寧に現代訳を進めたつもりではあるが、誤りが紛れ込んでいるかもしれない。分かり難い点があるかもしれない。気付かれた場合には、ご指摘をお願いします。

 本稿の構成は次の通りである。

  1.  栗本鋤雲について
     (『ウィキペディア』栗本鋤雲などを参考にして訳者が追記したものである)
  2.  著者序
     (著者が序として記したものではなく、「横須賀製鉄所の経営の事」の冒頭の部分を訳者が著者序として位置付けたものである)
  3.  運送船翔鶴丸の修理
  4.  横須賀製鉄所の設立の起源と経営
  5.  横須賀製鉄所の設立に関する問題と対応
  6.  「横須賀製鉄所の設立の起源と経営」についての要約
     (1~5に基づき、訳者が要約したものである)
  7.  仏国陸軍伝習の開設の起源
  8.  仏国語伝習所の開設の起源

  なお、本稿においては、人名や艦船名などの名称は原文に従ってフランス語で記している。

(個人会員 奥谷出訳)

1.栗本鋤雲について

 本章は、本文の理解を容易にするために、訳者が『ウィキペディア』の栗本鋤雲の項などを参考にして追記したものである。

 栗本鋤雲は、名を鯤(こん)。初名は哲三、のち瑞見(ずいけん)。通称は瀬兵衛(せへえ)、号は鋤雲(じょうん)、匏庵(ほうあん)。幕府の御典医を務めていた喜多村槐園の三男として、文政5年(1822年)3月に生まれる。安積艮斎(あさかごんさい)の私塾見山楼を経て、天保14年(1843年)、幕府の学問所である昌平坂学問所「昌平黌:しょうへいこう」に入学し黌試(こうし、校試)において優秀な成績を修め褒賞を得ている。

 嘉永元年(1848年)、奥医師の家系である栗本氏の家督を継ぎ、奥詰医師となる。安政年間には、医学館(江戸時代後期に設けられた医学校)で講義を務めており、各年末には褒美を授与している。のち医師に関する禁令に触れたかどで、一時謹慎となり、その後、安政5年(1858年)2月、蝦夷地在住を命じられ箱館(函館)に赴任する。
 鋤雲は、喜多村瑞見(ずいけん)の名で『夜明け前』に登場する。島崎藤村によると、この箱館への左遷は、鋤雲(瑞見)が軍艦「観光丸」の試乗者募集に応じようとしたことが、御典医の岡櫟仙院(おかれきせんいん)に睨まれたためといわれる(『ウィキペディア』栗本鋤雲)。

 安積艮斎は、その後、昌平坂学問所の教授になった人で、私塾見山楼は旗本小栗家の屋敷内にあり、小栗上野介もここで学んでいる(『ウィキペディア』安積艮斎)。いわば、上野介と鋤雲とは竹馬の友だった、ということである。なお、艮斎は昌平坂学問所の教授になった後も見山楼を続けていた。苦難の時代を支えてくれた小栗家への感謝の気持ちからといわれる。

 鋤雲は、箱館で箱館医学所(のちの市立函館病院)の建設、薬草園の開園、船運開通、食用牛の飼育事業など地域の発展に尽力し、やがて江戸に呼び戻される。幕府は箱館における鋤雲の功績を評価しており、鋤雲は昌平坂学問所の頭取、さらに目付に登用される。その後、製鉄所御用掛を経て、外国奉行に昇進し勘定奉行を兼任する。1866年(慶応2年)1月14日には従五位下・安芸守に叙任されて諸大夫となる(『ウィキペディア』栗本鋤雲)。

 この箱館時代に、奉行の命を受けて仏人メルメテカシュン(英名メルメ・ド・カション)に、日本語と日本の書物の読み書きを教え、同時にカシュンから仏語の伝授を受けた(Webサイト『東善寺』栗本鋤雲)。こうして、横須賀製鉄所の創設の舞台裏は整って行ったものと思われる。

2.著者序

 幕府の最末における横須賀造船所、仏国陸軍伝習(隊)、仏国語伝習所との開設の起源は、ことごとく私の一身に関係し、また3つとも相連なり脈絡しているので一を挙げて二を放っておくことはできない。よって、これを記そうとすれば、冗長になるのを厭わず初めから説かざるを得ないのであって、煩雑になるのを憚りむしろ黙って不言に付そうと欲していたのに、『出鱈目草紙』を読む人の中に、このことを知って勧める者があった。

 卿(上野介)について、今黙っていれば、後世ついにその伝承が失われてしまうと促す者が多く、やむを得ず記憶のままに綴ることにした次第である。
 顧りみるに、当時一緒に従事した人も今なお生存している者があり、かつ私記や手帳の類も、十年前の模様では、留め置いても何等策出することもはかられずと思い、誤ってことごとく火坑(かきょう)に投じているので、少しは錯覚しているものがないとはいえない。読者でもし疑う所があれば、その箇所について訂正告示を望みたい。

3.運送船翔鶴丸の修理

 元治元年(1864年)11月初旬か(『ウィキペディア』の翔鶴丸の項では8月)、私は、鑑察で横浜に在任中に、参政酒井飛騨守に突然呼び寄せられ、新部屋(城中の閣老や参政の部屋の外にある議事の小部屋)に招かれて、「仏国人に親しいのは何故か」、と問われた。「前年無職にて蝦夷地に在住していた折に、奉行津田近江守が指揮により、仏人メルメテカシュン(英名:メルメ・ド・カション)に日本語を教えていたことにより懇意になりました。この度、鑑察に命じられ横浜で立会いとして詰めていたところ、あにはからんや、カシュンも、彼の国公使付書記官にて同港におり、応接のたびに面会しました。公事が終わって昔話に及び、その縁故で自然に公使ロセツ(英名:ロッシュ)にも親しくなりました」、と答えた。
 すると、飛騨守は重ねて「それは格別の事にて、官の方面では都合がよい。知っての通り、外国奉行も多人数いるが絶えて一人の外国人と親しく話す者はなく、総べて鑑吏・下官・譯司・地方官等を伴って対話する原則があり、力めて形跡を残すことを避け、一身を全うすることを為すのみなれば、何事もはがゆく、政務の漏洩を防ぐこともできない。
 就いては、そなたに限り特別に外国人応接の節、下官・鑑吏・譯司および地方官を携えるに及ばすと、唯今大老(雅樂頭)・閣老(和泉守・豊後守)の議定があったので心得ておいてもらいたい」、と前後いささか顧慮なく任に当たって欲しいと云われた。上の人の信頼を得ることと、心配り・妨害や漏洩の患いのないことは、心から悦ふところといえども、時にこの例を聞かされると、傍議の起こらんことを恐れ、再三固辞したが聞いてもらえず、己をえずその命に従うことにした。

 飛州の問われることは、「当節海軍局の旧習や悪習を改革するにあたり、濫費(らんぴ)の最も先ず省くべきは、年々何度となく行われる艦船の修理にあり、その度毎に莫大な金額を浪費するのは、その艦付きの上官・下史、皆他所の航行の如く、手当の支給を仰ぎながら、怠惰にして好んで時日を順延し、工夫はその技が拙劣で、従ってその箇所を把握すると破損しており、その頻度のみ加わる。勘定奉行より、しばしばその事由は詳細に説明された。

 然るに今回又運輸船翔鶴丸の損所修理の申し出があったが、従来のままに任せれば、修理しても又損所が発見される。よって思うに、この節幸いに仏国の軍艦が横浜に係留しており、足下(貴方)の話合いでその軍艦の工手を雇い、翔鶴丸を修理することはできないだろうか。足下は仏人に親しいのでこれを諮問して欲しいということであった。

 私は承諾して退き、直ちに横浜に帰り、仏館に行ってロセツに諮った。彼は、「凡そ軍艦はその乗組船将の随意になるか、今来ているケリエル号は、船将だけでなく水師提督ジョウライスが乗り組んでおり、一応提督に話をし、然る後命を伝えざるをえない。幸い今晩六時に、提督、船将とも当館へ来る筈であり、あなたも労を厭わず、同時に来会して面前で諾否を決めようということになった。
 同夕に再び往って、提督ジョウライスと船将某に接見する。ロセツが口火を切り、件(くだん)の事を交渉すると、両人共に快く承諾された。ただし、ロセツより内談があった。翌日復命すると、私が翔鶴船の修理のことを司るべき旨があったが、その主任に当たり難き所以を探し、軍艦奉行木下謹吾と協議して、事を行うべきことを了承してもらい、横浜に帰った。

 仏軍艦より士官ドロートル、蒸気手エーデ、その外職工14人を借り、船将も毎日来て監督されたので、60余日で滊罐(きかん、エンジン)の損所を始めとして、内部・外部ともに完全にし美麗な軍艦となった。翌年の春、謹吾と共に乗って、相模湾内、八丈島、大島等を航行した。

4.横須賀製鉄所の設立の起源と経営

 同年12月中旬、晴れていたが風の烈しき日、私は税関を退き、反り目の官邸に帰る途中、遥か後方から砂ぼこりを蹴立てて2騎の馬が駆けて来るのが見えた。私は、気にも留めず街の曲がり角を曲がろうとすると、大声に私の名を呼んで、「瀬兵衛殿うまくやられしな、感服、感服」、と云う。振り返ってその騎を見ると、小栗上野介とその下官である。「何をうまく遣たるや」と云った。「翔鶴の修復なり」、と上野は云う。「卿はすでに見られしや」と云うと、「見たとも見たともしかも大見だ。今日、英国「バンクオリエンタル」に用事があった。もとより担当の者にても済む事ながら、埒のあかざるを恐れ午後より出張したのだが、用事はすぐに済んだ。

 兄に会いたき事もあり、帰り掛けに翔鶴丸のところまできたが、兄はすでに帰ったあとだった。そこで船底まで入って、ことごとく検分したが、「ケートル」(滊罐:きかん)も腐食の分、残らず割き棄てて補修してあり至極よい。それにしてもパイプ(鉄菅)はよく間に合ったな」。
 「去れば、これには少し困った。セミラミース船の品は大きくて用をなさない。上海に相応の品があると聞き、幸い便船もあり直ちに注文したので、早速に届けられた。それ故、このように早く仕上げることができた。
 海外注文品は貴局の許可を得る必要があるが、やれ評議やれ廻しと云い、長引くうちには時機を失する故、この度は受負い普請の仕上げ勘定と決め、無断に取り計らって仕舞った」、と云うと、「それは上々」、と上野は云った。

 「ところで、一番兄に相談し骨折りをして貰わねばならぬ一事がある」、と上野は言い出した。それは大事な議であることを察し、強いて私の邸に入ってもらった。

 話を聞くと、「先年佐賀より幕府へ納付された蒸気修船器械一式がある。(鍋島)閑叟君がその国に建設する心つもりで、オランダより購入したが、その建設費が夥(おびただ)しく、それを掌(つかさど)る人がいないのを心配して、幕府に納入して使用して欲しい」、ということであった。
 その器械の三分の二は既に運び当港石炭庫にあり、一部はなお長崎港にある。すでに相州貉(むじな)ケ谷湾(横須賀市長浦湾の入れ子湾か)に於いて、この器械を使ってドックおよび製鉄所を建設しようとして既に掛り役員も定め測量までもしたけれど、やはりその業に馴れた人がいないので中止した。

 多くの器械を錆腐(さぶくさ)に付しては、閑叟君の芳志を踏みにじることにもなるに忍びず、兄が今回翔鶴丸を修理するに用いた仏人ドロートル輩を率い、貉(むじな)ケ谷に行って一骨折りしてもらいたい。如何か」、と無造作に話だした。
 私は、ドックの名さえ始めて聞くほどなので、製鉄所などは如何なる物なるかも知らず、かつ仏人ドロートルに伝え、たとえ当人は承知しても、水師提督や公使の意中も測り難いので承諾はしなかった。そして、上野と共に今夕仏公使館に往って話し合い、然る上でその要請に応えたい」、と私は答えた。

 上野は金川駅(神奈川宿)に往き宿を定め、私と共に仏公使館に赴きその由を語った。ロセツもその業に暗く、ドロートルが果たしてその任に適すか否かを判断できない。
 そこで、使いを水師提督ショウライスの所にやり、告げると、ショウライスは上野が来ていることを知り、使いと共に公使館に来て、その話を聞いた。
 そして、ショウライスは答えた。「ドロートルはまだ若くその域に達していない。既にある物は保守できるが、新たに造る業は覚束ない。
 本船には、一等蒸気士官ジンソライという者がいる。この人は、今私事で上海に行っているが早晩帰って来る。この者が帰り次第その器械を点検させ、しかる後に明確な返事をしたい」、ということであった。そこで話は終り帰った。

 セミラミース艦の乗組士官蒸気方ジンソライが上海より戻り、佐賀献納蒸気製鉄器械を検分した後に、提督ショウライス、公使レヲンロセツを以って申し出たことは、「その器械は、総体的に小振りであり、従って馬力も強くない。鉄具など小補修に足りるまでのことで、ドックを造り大仕事を担うべき物ではない。かつドックを造り戦艦を造り出すが如き大事業は、なかなか我が輩など学術のよく成熟していない者がすべきではない。これはその任に堪えられる、然るべき人を選んでお雇いなさらないと叶うことではない。かつ今ある所の機械は、横浜近傍に据え付け、小修理に備えられれば至極便利である」、という趣旨であった。

 退いて小栗氏と相談をした。「既に軍艦を有する以上は、破損はある事なれば、これを修理する所がなくてはならない。唯今迄の如く彼の国の用済みの古船を買い、あるいは委託して新調するにしても、修船場が無い以上は、一たび壊れればたちまち用を為さず、又壊れ船の度毎に外国へ運航するときは、往復費用だけでも格外の事であり、断然良工を迎え近港にて然るべき場所を選び、建設する事に決まっており、然らばどの国なりとも、その然るべきを選ぼうかと話をしている。
 海外の各国は皆我が師であるが、他の国は傲岸不遜で、我々を脅しその不馴れを欺きあくまで利を貪ろうとするだけである。(亜公使ブラーインが井上信濃守を騙し、莫大な前金を受け取り富士山艦を造ったという奸情、既にほぼ漏れ聞いているが如きである) 唯仏国は従順にして他に比べればその説もやや信ずるに足りる。やはり仏国に委託するよう為すべき」、と云った。

 私は、「なおその巨費を憚り、仔細をいろいろ考えて推しはかられよ。今は為すも為さざるも自分で決められる。既に委託した後は如何ともすることはできない」、と云うと、上野は笑って、「今の経済は真に、いわゆる遣り繰り身上にて、例えこの事を起こさないとしても、その財を移して他に供するが如き状況にはない、故になくてはならないドック修船所を設立するとなれば、却って他の冗費を節約する口実を得る益がある。
 またいよいよ出来(しゅったい)の上は旗號(きごう)に熨斗を染め出すも、なお土蔵付き売家の栄誉を残すことになる【またいよいよ完成した暁には、たとえ旗印に熨斗を付けて売り出すことになっても、立派な土蔵(横須賀製鉄所の喩え)付きの売家(旧幕府の喩え)を売り出したという栄誉は残るだろう】。

 (上野のこの語は一時の諧謔ではない。実に憐れむべきものがある。中心は久しく傾き既に時事の復た如何ともならないことを知りえても、自分の関わる事の存在する限りは、一日も幕府の任を尽くすことに注力している者であり、熟友の名言の、常にこの口吻が離れることはない)

 それより、佐賀献納器械の長崎に残してある分も横浜に取り寄せ、ジンソライの取調べを経て、錆腐の分を手入れして磨き立て一通り組み立てをした上、同港太田川緣沼地(現在の横橋市中区吉浜町)を埋立て建設することになった。私の部下からは杉浦精介(今赤城と改名)、軍艦方からは誰か名を忘れた、通詞は北村元四郎(今は名村泰蔵)等を掛り役として、仏人ジンソライ、同ドロートル、同エーデの輩、その他と共に横浜小製鉄所の建築に従事させ、また一方は閣老水野和泉守、参政酒井飛騨守等に命を奉じて、仏公使・同水師提督等と討議し、その推薦を以って同国蒸気学士ウェルニ―(英名:ヴェルニー)を上海より呼び寄せ、追々話を詰めた上で、同人を総裁とし、相州横須賀湾に於いて彼の国地中海にあるツーロン製鉄所の式により、その規模を縮少して三分の二に定め、製鉄所1ヶ所、ドック大小2ヶ所、造船場3ヶ所、武庫敞廨(むこしょうかい、武器庫)共に4年で完成し、その費用は凡そ1年60万弗、4年総計240万弗で契約し、ここに日本において、始めて造船・製鉄・船渠(ドック)の大事業を起こしたのである。
 この頃、東洋各国の中、支那のものはより大規模であったが未だ完成していないという状況にあった。

 (本月17日、私は盆花を探し逍遥して巣鴨の花戸内山長太郎の家を訪うに、久々にてはからすも水野泉州の老退後逍遥して来ているのに出会った。共に十余年来のご無沙汰を語り、谷の幸・野の幸で酒を酌み交わしているうちに、話はたまたまこの事に及ぶ。
 水野は、「旧時において一事業の世に知られたことはない。唯その存在し留まるものは、横須賀造船所だけである。これは全く卿と上野の尽力に在る。言葉で以ってそのあらましを見たい」、と云った。)

5.横須賀製鉄所の設立に関する問題と対応

 横須賀製鉄所の設立は、他の一方について述べれば前の如く事は容易に見えるが、その内部の曲折に至っては、実に今日筆舌に尽くせないものがある。
 今その一二を挙げれば、海軍部下の者は、幕府の趣旨の何たるかを理解せず、これを仏国に委託することを大げさに騒ぎ立て、他の論者は無用不急の務めなりと口やかましく非難し、世事に疎い儒学者や武人などの類は、口汚く罵り奇怪な事をする輩もあり、あらゆる手を尽くしてこれを毀(つぶ)し壊そうとする者もいるが、その事の決定は既に数か月も前にあり、総べて事後の論なれば一切取り合わなかった。
 これらの顛末については、今では大抵忘れ去られているが、ただその中で製鉄所を設立することについて、上野の妙案でもって、軍艦方の習慣の怠惰質を打破した一挙は実に当時において愉快なことであった。

 これまで、わが国所有の軍艦は制度が整わず、将官は怠惰を極め、各部署の史卒は気ままで節制がない。何れも不潔汚穢で、漆や白土は剥落し、残飯や余羹は類所にうず高く積もっており、奇臭が鼻を撲つほどであった。これを誡めても頑固で従わない。
 それ故に、外国艦に乗って帰る者は、その整理整頓清潔を賞嘆しない者はない。
 時折、各艦にアンドロスと称する一種の悪虫が発生し、螫(ささり、似我蜂:じがばちの異名)の被害を受ける者あるいは発疹を生じ、あるいは痧(さ、病名)を為してその痒きに堪え忍ぶことができない。然るに、その虫たるや細微にして見ることもできない。
 私も心配して仏艦に問い合わせた。その虫は印度航行中の商戦には、たまたま生ずる事があると聞いたが、軍艦には決して生ずることはなくまた生じさせない。然るに、商戦はいろいろな貨物を載せなければ去ることはできない。掃除の至らない所がありこの虫が生ずることはあるが、軍艦には全般にその司がおり、掃除日に努めて清潔にするので、決してこの悪虫を発生させない。
 これは、仏艦だけの事ではなく各国の軍艦は皆然り、との回答であった。その旨を我が軍艦に諭したが、艦将始めなお頑なにして用いてくれない。

 今回、製鉄所を設立するにあたり、仏公使や水師提督ショウライス、船将およびジンソライ輩を率いて、予め地所検査を実施することになった。未開港の場へ我々が乗組んで外国船を回漕する事は禁制であるが、我が軍艦へ彼の人々を乗せて巡回することは支障ない。就いては、外国公使・水師提督輩を、我が軍艦に乗船させるのは初めての事なので、よく注意を与えて行動を控えさせることにして、そしって笑う事のないように命じ、そのアンドロス虫、尤も多いといわれる順動丸を指命して、今回の使用船に当てた。
 同軍艦の者は、ある者は当惑し、またある者は非常に驚いたが、外に術もなく、期日に至るまで昼夜を分かたず、清掃・粉飾に従事した。その余波で各艦ともに精励し清潔にしたので、アンドロスは令せずして我が軍艦から絶えた。

 さて、製鉄所は、最初相州船越あるいは貉ケ谷に設立する見込みで提示したが、仏人が測量して海底が遠浅にして十分ではない旨を申し出たので、改めて今の横須賀を提示した。
 たびたび鉛錘(えんすい、鉛のおもり)を投じ、その深浅(しんせん)を十分に測量して、製鉄所を設立するのに至極叶い、かつ景勝・要害も兼ね備わり、仏国ツーロン造船所の地形を彷彿とさせると、大いに喜ばれ、始めてここに確定した。元治元年(1864年)12月下旬の事であった。

 然るに、この年末に至り、上野介は已むを得ない事があって、勘定奉行を罷められ、陸軍奉行並み(軍艦奉行か)となった。造船所の設立事務の後任は松平対馬守となった。この人は太平の人材にして、軍国の事はその所長の器ではないので、始めの程はいたくその巨費に畏怖の体であったが、木下謹吾、山口駿河守、浅野美作守、および私など同じ掛りにて、皆これを奨励した。また上の閣老・参政も真剣に取り組んでおり、仏国との仮契約は既に済んでいるので、今更如何ともすることはできない状況であった(『匏庵遺稿』)。

 元治2年(1865年)1月 に、上野介は、横須賀製鉄所御用掛に栗本鋤雲らと共に任ぜられ、29日に、仏国と製鉄所建設の約定を交わす。2月21日 に軍艦奉行を辞し、寄合席に。改元して慶応元年(1865年)5月4日 に 4度目の勘定奉行として再登場する(「ウィキペディア」小栗上野介)。

6.「横須賀製鉄所の設立の起源と経営」についての要約

 『匏庵遺稿』の「横須賀製鉄所の経営の事」においては、横須賀製鉄所の設立と経営について、多くの視点から語られているが、あちこちに分散している。それ故に、訳者が要約してまとめたものである。

  1. 国防上の理由から軍艦は必要であるだけでなく、当時すでに軍艦を購入して使用していた。
  2. 軍艦の購入は、外国で用済み後の古船を購入したり、新船を委託する場合、軍艦富士山のように高い費用を吹っ掛けられたりした。また、『近世造船史』によると、構造的欠陥品を購入させられることもあった。
  3. 軍艦の修理を外国で行う場合、往復の時間と航行費用が必要であった。
  4. 日本海軍の軍人たちは、怠惰で軍艦の廃棄物処理や清掃が行き届かず、また漆や白土が剥落していても航行に使っていた。
  5. また、技術レベルも低く、修理してもすぐに次の修理が必要になり、修理費が幕府の財政を圧迫していた。
  6. 船の修理の状況は勘定奉行から閣老に報告されていた。

   軍艦は購入するにも修理するにも高い費用が掛かっていたことがわかる。

  1. 軍艦は国防上から必要であるが、高い費用を削減する必要があった。
  2. 江戸に近い所に設立する必要があった。

 『近世造船史』には、「幕府は、長崎製鉄所の地が遠く首府に隔たっており、不便を感ずること多く、他の一面に於いて、国防上の必要性よりして、遂に決然江戸湾内に一大海軍工廠を興さんとせり」、と記されている。

  1. 『ウィキペディア』などによると、鋤雲は幕府の昌平坂学問所「昌平黌」における秀才であった。
  2. 鋤雲とカシュンは、北海道に在任時に日本語とフランス語を教え合う仲であった。しかも、鋤雲は左遷されて北海道に赴任しているのでその接点は極めて偶然といってよいのであろう。
  3. カシュンはフランス公使ロセツ付きの書記官として日本に赴任してきた。
  4. 栗本鋤雲も、江戸に呼び戻され、幕府の鑑察として横浜に在任中に応接で面会するようになり、より親しくなっていった。
  5. カシュンを通じて、鋤雲は公使ロセツとも親しくなった。
  6. 鋤雲は上野介の屋敷内にあった安積艮斎(あさかごんさい)の私塾見山楼に入塾し、ここで、上野介と出会い、竹馬の友となった。また、見山楼は上野介の父忠高の時代に開塾されており、この出会いにも偶然性が認められる。
     鋤雲は「狂人」、上野介は「天狗」のあだ名をもっていたので通じ合うものがあったのであろう。

  横須賀製鉄所の設立の舞台裏には、鋤雲のこのような一連の出会いが存在し、フランスとの交渉において大きな効果を上げていたことが窺える。

  製鉄所の設立をスムースに進めるために、各種の視点に配慮して周到に進めようとしたことが窺われる。

  1. 製鉄所を設立することの建議と設立契約の分離
    フランスへの設立委託の契約をする以前に、製鉄所を設立することの建議は既に諮られていた。これは、設立反対派を封じるための対策であったことが窺える。
     反対派の理由などは本文に見られるので参照してください。本文には見られないが、淡路島・四国・北海道の担保説(『東善寺』小栗上野介の濡れ衣・四国・蝦夷を担保にした説)や勝海舟の海軍500年説(『海舟日記」)という反対意見もある。
     担保説は、勝海舟がフランスからの借款には反対だという話を『海舟日記』に記しており、それから派生した説と考えられている(『東善寺』小栗上野介の濡れ衣・四国・蝦夷を担保にした説)。しかし、そのような密約はなかったことが坂本藤良著『小栗上野介の生涯』で明らかにされている。
     海軍500年説とは、「イギリスでは海軍の人材育成に300年かかっている、日本では500年かかる。だから、人材育成から始めるべきである」と、海舟が老中に説いたという説である。ただし、その具体的な根拠は示されていない。
     
  2. 製鉄所の設立の試行
    設立体制を組んで、佐賀藩から献納された蒸気修船器械一式を使って設立を試みた節が見られる。立地を測量する段階で人材の問題から中止しているが、フランスとの交渉において人材の重要性が指摘されており、その判断には役立ったのではないだろうか。
     
  3. フランスとの交渉に関する配慮
    当時の幕府の慣例を破って、栗本鋤雲に対してだけフランス側と一人で交渉してよいという許可を与えている。これに対して、鋤雲は、「心配り・妨害や漏洩の患いのないことは心から悦ふところ」と言っていることからみて、製鉄所の設立は秘密裏に進める必要性を痛感していたものと思われる。
     
  4. フランスの技術力や対応性などの確認
    運送船翔鶴丸のフランスへの修理依頼は、フランスの技術力や誠実な対応を把握するために、実施されたことが窺える。小栗上野介は自ら修理状況を検分してフランスへの信頼感を強めたことが記されており、また、その直後から、製鉄所設立のフランスへの打診が始められている。
     『ウィキペディア』の翔鶴丸の項によると、翔鶴丸の修理は親密な幕仏関係の端緒になった、といっている。
     
  5. 海軍軍人の教育
    幕府の海軍軍人の怠惰が軍艦の修理費を押し上げる要因の一つであることを見抜き、製鉄所の候補地をフランスと共同して調査する際に使用する軍艦として、当時最も清掃の程度が低いといわれた順動丸を指定している。
     そのため、順動丸の乗組員は必至で清掃をして調査に間に合わせた。また、その余波で、他の軍艦もきちんと清掃をするようになり、軍艦を丁寧に使う習慣が出来上がったことが推定される。
     鋤雲は、上野介のこの妙案は実に愉快であったと述懐している。海軍500年説批判もその中には含まれるのであろうか。

 製鉄所の設立について、次のような誠実な提案があったことがわかる。

  1. 横浜製鉄所と横須賀製鉄所の2段階設立方式の提案
     セミラミース艦の乗組士官蒸気方ジンソライは、佐賀献納蒸気製鉄器械を検分した後に、提督ショウライス、公使レヲンロセツを介して、「その器械は、総体的に小振りであり、従って馬力も強くない。鉄具など小補修に足りるまでのことで、ドックを造り大仕事を担うべき物ではない。かつ今ある所の機械は、横浜近傍に据え付け、小修理に備えられれば至極便利である」、という趣旨の提案をしている。
     一方、『近世造船史』には、「軍艦製造に必要なる設備を完成せんとするは、一朝一夕の業にあらず、故にこれを興すと同時に須らく先ず小規模の修理工場を開設し、艦船の応急工事を施し、傍ら海軍工廠建築に要する器具を製造し、可及的この種の物品に対し、輸入を防止するに務め、併せて邦人の西洋式工業を伝習し、他日工廠完成の暁には、これらの職工を使役し、海軍の需要を満たすは須要の事項なり」、と記され、横浜製鉄所を先行して設立することの効用が説かれている。 
     
  2. 造船には人材を要す
     また、ジンソライは、「ドックを造り戦艦を造り出すが如き大事業は、なかなか我が輩など学術のよく成熟していない者がすべきではない。これはその任に堪えられる、然るべき人を選んでお雇いなさらないと叶うことではない」、と提案している。この提案に沿って、ウェルニーが推薦されるのである。
     
  3. 規模はツーロン港の三分の二
     本文中で「仏国地中海にあるツーロン製鉄所の式により、その規模を縮少して三分の二に定め、製鉄所1ヶ所、ドック大小2ヶ所、造船場3ヶ所、武庫敞廨(むこしょうかい、武器庫)共に4年で完成し、その費用は凡そ1年60万弗、4年総計240万弗で契約し、ここに日本において、始めて造船・製鉄・船渠(ドック)の大事業を起こしたのである」、といっているが、また「この頃、東洋各国の中、支那のものはより大規模であったが未だ完成していないという状況にあった」、ともいっており、規模を徒に大きくすることを避けた提案であったことがわかる。
     『近世造船史』にも同様のことが記されている。
     

  これは、栗本鋤雲に語った言葉である。ただし、4は語った言葉から鋤雲が推測して記したものである。

  1. 今の経済は真に、いわゆる遣り繰り身上にて、例えこの事を起こさないとしても、その財を移して他に供する状況にはない。
  2. なくてはならないドック・修船所を設立するとなれば、却って他の冗費を節約する口実を得る益がある。
  3. 「いよいよ出来(しゅったい)の上は旗號(きごう)に熨斗を染め出すも、なお土蔵付き売家の栄誉を残すことになる」、という名言を残している。
     これを、現代語訳すると、次のようになる。【またいよいよ完成した暁には、たとえ旗印に熨斗を付けて売り出すことになっても、立派な土蔵(横須賀製鉄所の喩え)付きの売家(幕府の喩え)を売り出したという栄誉は残るだろう】。
     すなわち、幕府が倒れても次の政権に横須賀製鉄所は引き継げうる効果があり、その栄誉は残せるだろうといっているのである。ここで重要なことは、元治元年の時点で幕府が倒壊することを見通していることであり、また、それでも巨費を投じて製鉄所を設立するのだという意志を、鋤雲に吐露していることである。製鉄所は国のために設立するのだという、強い意志が感じられる。
     
     鋤雲は、この上野介の口吻が脳裏から離れない、といっている。
     この哲学は、熟友の鋤雲が上野介を想うあまりの作り話といわれたこともあるが、事実、明治政府に引き継がれており、今は名言として知られている。またアメリカの海軍基地に今も一部が残されている。
  4. 幕府はすでに傾き、如何ともならないことを知りえても、自分の関わる事の存在する限りは、一日も幕府の任を尽くすことに注力する者と、鋤雲は上野介を捉えている。

 そして、忘れてはならないのが、横須賀製鉄所の首長として活躍したフランソワ・レオンス・ヴェルニーである。フランスの詩人で、大正期に駐日大使を務めたクローデルは、「(故国)フランスではほとんど知られていないが、日本に残した思い出は偉大にして誠実な人間のそれである」と言って、ヴェルニーを回想していることである(Webサイト(『横須賀造船所の考察と想定復元』)。
 江戸から明治への大変動期に、レンガ造りから初めて横須賀製鉄所を作り運営をしただけではなく、明治天皇の行幸を依願したり、観音崎の灯台などの建設・走水からの水道建設などを推進し、富岡製糸所の建設などへの協力などに、また、フランス人の募集・面接・採用判定および機械類の選定・購入立会いなどに、その誠実な人間ぶりを振り返ることができる。
 ヴェルニーも上野介の心意気を感じていたのではないだろうか。誠実な人の結びつきが横須賀製鉄所を、さらには日本の近代化を推進し、原動力として働いたのではないだろうか。熱くなるものを感じる。
 下記をクリックすると、横須賀製鉄所の想定復元図を見ることができる。これは、大林組の考察・復元プロジェクトチームが作成したものである。

 横須賀製鉄所の想定復元図

7.仏国陸軍伝習の開設の起源

 元治2年(1965年)3月のことと思う。一日、小栗上野介と浅野美作守(今は次郎八)とが轡(くつわ)を連ねて、私の反り目の官邸を訪ねてきた。(以前、浅野美作守が神奈川奉行であったとき、生麦事件の賠償金の件で職を追われ蟄居させられていたが、戻ってきた。しかし、憚りあって公然と官に就くことはできず、陸軍御用取扱の名義を以って諸官の下にあった。もともとその罪はないようなものであったので、上の信任は厚く力を尽くすことはできた)

 時候の挨拶が終わると、両人が揃って云うことには、老兄は既に承知しておられるか否かは知らないが、今日職掌の陸軍の大眼目の事について議する旨があり、老兄の意見を聞きたくて来た、と云うのである。

 そもそも旧来の軍制を廃止して、洋制に倣い騎歩砲の三兵を編成したのは文久2年(1862年)の事。既に4,5年を経ているが、もとより一時の仮定で出ており、かつその間種々の障害があって、効果は上がっていない。今もって、一定の規律が立っていないだけでなく目的さえも未だ確定していない。
 かりそめにも、倉橋長門守や貴志大隅守のように、先年長崎伝習に行ってきたが、オランダ人に騎馬の技を受けただけで、騎兵の隊伍(兵士の組織された集団)や使用等の事に至っていない。それでも、その乗馬だけを知っていることは、他の知らざる者に優れているので、しばらくは騎兵頭とさせている。これはあまりに甚だしい。
 高畠五郎(今、眉山)や大鳥圭介等に問い合せても、各自憶測等を以って、漸く真似事をして面目を取り繕っているまでで、その実郊外へ出して三兵などと言い兼ねる状況にある。
 よって、両人の思う所は、然るべき国に頼み陸軍の教師を迎え、士官兵卒を教導してもらい、一定の式を定めたく、この事に付いて参った、という。私は、この時始めて我が国に三兵の名はあるが実はなく、かつ杜撰で、何国の式に依るということではないことを知り、大いに驚いた。両兄の言によると、実に児戯に類しており一旦緩急があっても用が足りない。

 これは捨て置かれない大事なことであるが、始めて字を習う児童は名人の手本について習うのではなく、先ず村の師を求めて肉筆を学ぶことが道理であり、陸軍教師を招聘することは最も現在の急務である。
 しかし、「当節、神奈川定番役たちの調練が行われている。林百郎がこれを指揮号令して英式を用いていると聞いているが、この者など技術に長じているように思うので採用しては如何」、と答えた。両人は大いに笑い、「兄戯れるのは止めてくれ、百郎の如きは陸軍に決してその人なしとはしない。いわんや、山手の英兵(この時、英国護衛兵が来て横浜本村山手に駐屯していた)が調練しているのを柵外より窺ったが、それに習っても役に立たない」、という。

 両人が相談したいことは、真に我が国陸軍人、三兵・教師各二人づつおよび下士官・職工を兼ねる者等数人を選び、雇い入れたいという趣旨の依頼であった。その周旋については、公使が謹んで任ずる由の答えを得たので両氏に報告すると、両氏はその速やかな対応を悦び、即日直ちに陸軍総裁に上申した。総裁はかねて承知の上で、それぞれ手順を追って運んだが、世間の誰も知る者はない状況であった。(この時の陸軍総裁は老中松平伊豆守、副総裁は参政松平縫殿頭と思う)

 この時、陸軍の三兵・奉行頭以下職員もすでに多かったので、私は特にその端緒を開き、大綱を挙げ渓に橋を架しただけで、その後の細目についての応接はすべてその人たちに任せた。格別の事がなければ関係しなかった故に、その順序や細目については記憶していない(『匏庵遺稿』)。

 1867年(慶応3年)1月13日にシャノワーヌ(後の仏国陸軍大臣)やブリュネなど15人の仏軍顧問団が来日し、幕府の勘定奉行小栗上野介が主導して創設され、士官、歩兵、砲兵、騎兵の連隊教育が行われた。しかし、鉄砲担ぎを敬遠し旗本の応募はほとんど無く、兵士には、博徒・やくざ・雲助・馬丁・火消などの江戸の無頼の徒が徴募により集められた。
 号令はすべて仏語で行われ、当時最新鋭の装備を誇っていた。なお、装備は公使ロセツを通して購入され、このとき、皇帝ナポレオン3世から二中隊分ずつの野砲、山砲が伝習隊に贈与された。

 幕府陸軍の歩兵隊は江戸城西の丸下、大手前、小川町、三番町に設けられた屯所に入営したが、伝習隊も同様であり、大鳥圭介(歩兵頭並~歩兵奉行まで昇進)の下、大手前の第一大隊(隊長:小笠原石見守)、小川町の第二大隊(隊長:本多幸七郎)、三番町の第三大隊(隊長:平岡芋作)が編成された。当初は四大隊(計3,200人)であったが、小川町の一大隊が幕府陸軍第6連隊に吸収されている(『ウィキペディア』伝習隊)。

 権田村の若者16人がここで学んだことが知られている。

8.仏国語伝習所の開設の起源

 仏国陸軍教師の招聘の件は決まったが、我が国において仏語に通ずる者は僅かに鹽田(しおた)三郎・立廣作の二人であった。函館にいるとき、メルメテカシュンに習い覚えたもので、しかも両人は英語にも通じているが、それぞれ既に職に就いている。
 これでは、教師が来日したとき、事を授けるのに動作が緩慢になるのは免れえない。かつ外国と締結した上には、各々はその語に通じ、然る後に業を受けるのが道理であろう。
 そこで、私は、公使レヲンロセツに相談して、その論意に基づき仏国語伝習所を創設すべきという意見書一編を作り、小栗・浅野の両氏に提示した。両氏は、一見して至極当然である、と同意され、直ちに連署して上申するとたちまち許可された。然るべき土地を見立て、なるべく簡易に設立するようにとの要望があり、3人共にその掛りを命ぜられた(『匏庵遺稿』)。

 通称横浜仏語伝習所は、元治2年3月(1865年)、武蔵国久良岐郡横浜町弁天町(現在の横浜市中区本町6丁目)、弁天池の北隣に設立された。所長には外国奉行川勝広道が就任、フランス側からの指名で鹽田三郎が補佐した。
 フランス側からは、公使ロセツが責任者となり、その秘書で通訳のカシュンが事実上の校長であり、カリキュラム編成と講義を受け持った。
 カリキュラムは、仏語だけではなく地理学・歴史学・数学・幾何学・英語・馬術で、半年を1学期とし、午前は8時から正午までの4時間と、午後は16時から18時までの2時間を授業時間とし、日曜日・祝日は休業、水曜日は午前のみの半ドンであった。

 この伝習所は、幕府が倒れロセツが本国に召還されると、自然廃校となったが、明治2年(1869年)に明治政府によって再開された(『ウィキペディア』横浜仏語伝習所)。

 小栗上野介の養子又一や栗本鋤雲の子息が学んだことが知られている。

以上


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