小栗上野介秘話

陣屋との嫌疑を受けた観音山小栗邸について


 観音山小栗邸の跡地は高崎市街の北西にあたり、上信県境に近い。
 高崎市街地から国道18号線、王政復古調に云うと東山道に出て烏川を渡り、右折して草津街道(国道406号線)に入る。烏川の脇を走ったり渡ったりしながら40分ほど北西に進んでゆくと、「ます重」で有名なレストラン満寿池がある。その前を流れる烏川は、小生の少年時代には水量も豊富で鱒釣りの名所であった。

観音山西の断崖絶壁と権田栗毛の堂宇(渋谷氏撮影)
観音山西の断崖絶壁と権田栗毛の堂宇(渋谷氏撮影)

 道路の反対側には切り立った断崖絶壁が見える。それが観音山の西面であり、榛名山麓の西の終端にあたる。
 観音山の名称は、崖下の堂宇に熊谷次郎直実の愛馬権田栗毛が祀られていることに由来する。鵯越(ひよどりごえ)の逆落しや平敦盛との一騎打ちなど、一の谷の戦いの名場面で活躍するが、その戦いの中で傷つき、介抱されて生地の権田に帰ってきたという伝承がある(Webサイト(高崎市・文化財情報))。

 そして、この断崖絶壁こそ、東山道鎮撫総督府の小栗上野介追討令の疑惑を生み出した源泉であったのではないだろうか。
 観音山小栗邸は、慶応4年(1968年)3、4月頃に観音山の中腹を開拓して建築された母屋で、上野介はここを永住の地と考えていた。そのことは、神田駿河台を出立する日の前日、慶応4年(1868年)2月27日に訪ねてきた渋沢栄一の従弟で、彰義隊頭取渋沢成一郎(喜作)に語った「天下が太平を謳歌するに至ったなら、一頑民となって世を終わろう」という言葉から推察される(田辺太一『幕末外交談』)。
 場所は上野国群馬郡権田村(現在の高崎市倉渕町権田)。今やグーグルマップでも検索できる名所となっている。

 上野介は3月1日に権田村に到着し、東善寺に仮住まいを始めた。6日に初めて観音山に登り、家作りの地所を見分したことが『小栗日記』に記されている。16日には自ら作成した住居の絵図面を大工に渡し木積りを依頼し、4月28日には建前をする予定であった。
 ところが、4月22日に東山道鎮撫総督府から発令された小栗上野介追討令には「権田村に陣屋等厳重に構え、……上は天朝に対し不埒至極……」と記され、母屋は謀反の拠点である陣屋と見立てられてしまったのである。しかし、その証拠となるものは何もない。敢えてそれらしきものを挙げるならば、前述の断崖絶壁の上に母屋があったということだけであろう。

 慶応4年正月3日に始まった鳥羽・伏見の戦いは、戊辰戦争の初戦となった戦いである。鳥羽方面で銃声が聞こえ戦端が開かれた。しかし、翌4日、錦の御旗(岩倉具視が作ったといわれる偽物)が上がると、薩長軍は官軍とされ、旧幕府軍は総崩れとなり、大阪城に逃げ帰る。
 6日、大阪城にいた慶喜は、錦の御旗が上がったことを知り、「徳川家と薩摩藩の私戦」という構図が崩れたことを知る。慶喜は自身が朝敵とされることを恐れ、表では旧幕府軍へ大坂城での徹底抗戦を説いたが、裏ではその夜僅かな側近、老中・板倉勝静と酒井忠惇、会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬と共に密かに城を脱し、大坂湾に停泊中の幕府軍艦開陽丸で江戸に退却した(『ウィキペディア』鳥羽・伏見の戦い)。慶喜は女装をして大阪城を抜け出し、開陽丸も艦長の榎本武揚には無断で乗船したといわれる。
 12日から江戸城で鳥羽伏見の戦いの善後策が評定され、上野介の提唱する主戦論が支持され決定したかに見えたが、慶喜の意向で恭順論になり、上野介は1月15日に江戸城芙蓉の間に呼び出され酒井雅樂頭からお役御免を言い渡される。こうして、勘定奉行、海軍奉行並み、陸軍奉行並みの役職を罷免される。
 その後、慶喜の動向を見定めながら幕臣に会ったりしている。上野介がその後の江戸在中の間に会った、1日あたりの人数は罷免以前に比べ増えたといわれる(高橋敏『小栗上野介忠順と幕末維新―「小栗日記」を読む』)。

 28日に権田村への土着帰農願いを提出する。翌29日に受理され、知行地返還はお構いなしとなる。                        
 2月26日に板橋宿に先触れを提出する。ここで初めて権田村への行程が明らかにされたということであろう。
 上野介が又一と共に神田駿河台の自邸を出立したのは2月28日朝8時。母堂や妻たちおよび家臣の一行はすでに出立していた。途中板橋宿で昼食し、大宮の小栗家中興の祖忠政の眠る普門院に立ち寄って参拝し、この日は桶川宿で宿泊。29日は吹上で昼食し深谷宿に宿泊。30日は新町宿で昼食し高崎宿に宿泊。最終日の3月1日は室田宿で昼食し、当面の仮住いの東善寺に到着したのは午後4時過ぎである(『小栗上野介忠順と幕末維新』)。
 すると、翌日の2日には早くも世直し一揆と称する暴徒来襲の噂が聞こえてきたのである。上野介は関東からの運上を搾取して、金子500万両とか100万両とかを持参したという、奇想天外な風聞が生まれていたという(『小栗上野介忠順と幕末維新』三右衛門日記)。
 上野介は話し合いによって解決しようとしたが決裂し、4日朝6時半には隣村に屯集していた者たちが押し寄せるという注進があった。母堂や妻たちを避難させ、家来・歩兵・権田村の猟師および強壮の者など100人余の人数を5手に分けて、三方から押し寄せたおよそ2,000人の暴徒に応戦した(『小栗日記』)。
 統率や戦意に優れた上野介隊は暴徒たちを数時間で撃退したといわれる。そのことは、また「脅威」として捉える向きがあり、追討令の新しい火種となっているともいわれる。
 暴徒の数2,000人は、上野介の見立てであり『小栗日記』に記されており、また『群馬県史』も同じ人数である。その人数の中には、権田村の隣村、すなわち三の倉村、水沼村、岩氷村、川浦村の4ケ村から狩り出された農民が多数含まれており、夜に入ると4ケ村の役人が上野介に詫びに来ている。

権田村土着の決断

 上野介が権田村に土着する決意をしたのは、『小栗上野介忠順と幕末維新』によると、次の3点である。

  1. 上野介の知行地は10村余に及ぶが、一村がすべて自分の領地でないと無理であり、その観点から、権田村は石高が1,354石の下野国足利郡高橋村に次ぐ375石である。(一つの村落に対し複数の領主が割り当てられる相給という制度があった)。
  2. 徳川慶喜が大政奉還後、倒幕を主張する薩摩の西郷隆盛は、江戸を始めとする関東の擾乱を目的として御用盗を組織するが、高橋村は、その一部が主体となって挙兵した出流山(いずるさん)事件の下野国出流山満願寺に近く情勢が不穏である(『ウィキペディア』出流山事件)。
  3. 権田村名主の佐藤藤七は遣米使節一行に随行していることからもわかるように、権田村とは強い信頼関係があったことは明白である。また、権田村出身の若者は権田歩兵としてフランス式の歩兵訓練を受けている。
     
    小生は次の2点を追加したい。
  4. 観音山は自分の持山であり、そこには熊谷次郎直実の愛馬権田栗毛が祀られており、源氏ゆかりの地という思いがあったのではないかと思われる。(小栗家は源氏の系統である)
  5. 東善寺は5代政信を中興開基とする寺である。先祖が関係している土地であることは心強い。
観音山小栗邸跡の標柱と案内板
観音山小栗邸跡の標柱と案内板(渋谷氏撮影)

帰農計画

 上野介は土着帰農願いを出しているが、生活の糧として何を計画していたのかは明白ではない。東善寺の住職松本泰賢は次の2つを推察している(Webサイト『東善寺』観音山の小栗邸跡)。

  1. お茶と養蚕。2つとも当時の主な輸出品であり、これを取り入れて生計を立てるつもりであった。
  2. 観音山には江戸から運ばれたお茶の木が所々に残っている。
  3. 上州は養蚕の地であり、また江戸から桑の木を運ぶ必要はない。

 勘定奉行の要職にあった上野介には何が生計に役立つかは十分に認識されていたと思われる。

 隣村の岩氷村出身の作家塚越停春楼は、「上州(上野介)は観音山宅地の付近を拓きて茶を植え付け、茶園となしたり、亦その長く土着するに意ありたるを推するの一証となすべし」(『小栗上野介末路事蹟補正』)、といっており、茶園の推察を裏付ける。
 かって上野介に従って関税改訂の事務に参加した田辺太一は、「小栗は、茶や生糸の製造からその市場に流通する状態などをよく知っていて、実に感服のほかはなかった」と述べていることからも(「悲劇の「徳川絶対主義」設計者・小栗忠順」『幕末悲運の人びと』石井孝)、推測されうることである。
 
 母屋は競売に付され、最初に買ったのは前橋の商人であったが、その後、前橋市総社町の都丸家が住居として買っている。当時の主人の名刺には、「徳川幕府勘定奉行 小栗上野介旧本宅」と、肩書のように記されていたという。母屋は総2階建の大きな建物で養蚕に使われた(星野亮一『上州権田村の驟雨』上州路)、という。
 名刺への表記については所有者であるという強い自負があったのであろう。小生は都丸家の2階建屋の写真を見たことがあるが、それは、子供の頃に見た養蚕家屋の作りに似ていると感じた。

観音山開拓計画

 上野介が何故観音山開拓計画を立てたかについては、『小栗日記』の慶応4年(1968年)潤4月1日に、小栗上野介追討令を持って追捕に押し寄せた高崎藩、安中藩、吉井藩の3藩の代表たちとの談判の席上で次のように語っている。

観音山小栗邸跡
観音山小栗邸跡(渋谷氏撮影)

 観音山の件は、かねがね自分の持ち林である。他の畑地へ家作りなどをすればそれだけ石高が内引きになる。全く雨露を凌ぐまでの家作りにて要害になるほどの普請ではない。案内するので目撃されれば事柄が分かり、陰謀等を考えている者が屋敷付きの田畑を新開し後年の策を考えるなどはあるまじきこと。十分に見分をなされ別心の無き事は各藩より申し立てくだされたい。

(『小栗日記』慶応4年閏4月朔日)

 既存の畑に家作りをすればそれだけ石高が減少する。観音山は、自分の持林なのでそこを開拓して用地としたということである。上野介は土着帰農届を提出した折に知行所の返還も申し出ている。そのことを考えると、上野介は当初から観音山の開拓を計画していたと考えることが妥当であろう。

観音山用水
観音山用水(慶応4年より流れは続く、渋谷氏撮影)

 観音山は、前述のように榛名山麓の裾野の一山でその西は断崖絶壁で、烏川に落ち込んでいる。
 塚越停春楼は、「上州(上野介のこと)の観音山居宅地は榛名山の尾崎にあたり、一渓流の烏川に落ち合う所に峙(そばだ)ち、絶壁幾十丈の上における広き平地なり。官道崖下を通ず、優に城砦を置くにたるべき景勝地にして、眺望最も佳、彼か城砦を築きたりと訛傳(誤伝)せられたるも、偶然にあらず」(『小栗上野介末路事蹟』)、と記している。
 そして、『上州権田村の驟雨』には、観音山は、前に川(烏川)が流れ、両脇に沢があり、要塞のような雰囲気もある。守りを固めれば暴徒の襲来程度は防げるかもしれない立地だが、近代戦に耐える代物ではない。究極のところは見晴らしのいい山腹の住まい、といったところであった、と記されている。

 上野介は、慶応4年3月6日に初めて観音山を訪れ、家作りの地所を見分し、その後鎮守に参詣している。このことから、江戸にいる頃から観音山の開拓は始まっていたと考えられる。この後、上野介はほぼ毎日のように観音山に日参している。
 観音山の開拓計画の内容は次のようなものである(『小栗日記』、『上州権田村の驟雨』、Webサイト『東善寺』)。

  1. 宅地造成 400坪
    3月11日に400坪の平地にすることを村方黒鍬に依頼している。
  2. 母屋および家臣などの住居3棟
    3月16日に自ら作成した住居用絵図面を大工に渡し木積り(きづもり、木材の寸法・数量などを見積もること『広辞苑』)を依頼している。
  3. 田畑開拓 5反歩  水田、桑畑、茶畑等
  4. 草津街道から観音山中腹の小栗邸に通じる新路(600~700m)開拓
  5. 馬場開拓
    乗馬訓練用。『小栗日記』には「観音山に乗馬」という記述が見られる。上野介の愛馬はアラビア馬で蹄鉄を履かせているため、上野介の登城は、江戸でもよく知られていたようである。      
  6. 観音山用水の開削
    3月13日に、榛名山麓から烏川へ流れ落ちる河川(小いたつ沢)から観音山に引水する用水路の場所を見分している。これは上野介が器械測量をしたもので現在も水は流れている。
小高用水
小高用水(渋谷氏撮影)

 小高地区では、湧水頼みの稲作をしていたので、上野介が器械測量をして小高用水が開削された。これは現在も使われている。
 アメリカから持ち帰った測量器を使って水源の稲瀬川と小高の間を測量し、村人たちを使って用水路を開削したという。
 懐中時計で時刻を確かめながら、測量器を使って実測する上野介の姿を村人たちは惚れ惚れする面持ちで見とれていたといわれる(『上州権田村の驟雨』)。

 これらの用地の手配は百姓総代の池田九兵衛に依頼。用地の礎石は、烏川から運び込んでいる。石一つに天保銭一枚を与えたので村民は競って手伝い、観音山の中腹は平らな宅地と田畑に短期間に変わった(『上州権田村の驟雨』)。そして、用地、用水路、通路の工事の監督は佐藤藤七・勘兵衛親子に一任している。

 小栗邸の母屋は、斬首後、東山道鎮撫総督府の大音龍太郎(彦根藩脱藩)を巡察使、原安太郎(園部藩脱藩、岩倉具視の食客となる)、豊永貫一郎(土佐藩脱藩、中岡慎太郎の陸援隊出身)を副巡察使とする指揮命令により競売にかけられ、前橋市総社町総社に現存する。
 東山道鎮撫総督府が発令した小栗上野介追討令によって、小栗邸は陣屋と見立てられ、しかも上野介は朝敵とされたが、「朝敵」というその言葉は一人の人間の復権に対して高い壁として立ち塞がっているといわれる(『上州権田村の驟雨』)。
 
 なお、本稿は、渋谷喜一氏の会報誌31号 歴史散歩「小栗上野介の故地を訪ねて」に触発されて書いたものである。併せて読んでいただきたい。


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