季節
谷の鶯 その2
鶯の原典と解釈の変遷
個人会員 奧谷 出
『毛詩』
『ウィキペディア』「詩経」によると、『詩経』は中国最古の詩集。儒教の経典である経書の一つに数えられる。 後漢以降、毛氏の伝えた『詩経』のテキスト・解釈が盛んになったため、『毛詩』という名で呼ばれるようになった。宋代以降に経典としての尊称から『詩経』の名前が生まれた。
『毛詩』の解釈には、魯の毛亨(もうこう)・毛萇(もうちょう)の解釈を伝える「毛伝」と後漢の鄭玄(じょうげん)が『毛詩』対して作った注釈である鄭箋(じょうせん)の2つの注釈があり、『毛詩』の古注といわれ、唐代の主流の解釈となった。
鶯の原典―――『毛詩』小雅・伐木篇
鶯の原典は、『毛詩』の小雅・伐木篇の漢詩とされる。
木を伐ること丁丁たり 鳥の鳴くこと嚶嚶たり
幽谷より出でて喬木に遷る
嚶としてそれ鳴くは その友を求むるの声
かの鳥を相(み)るに、なほ友を求むる声あり。
矧(いわ)んや、これ、人の友生を求めざらむや。
神のこれを聴かば、終に和し、かつ 平かならむ。
- 伐木篇について、『毛詩』の古注である「毛伝」と「鄭箋」の解釈を踏まえて要約すると、鳥が幽谷を出て高い木に遷り住んでも、なお、昔の友を呼んで鳴くという喩えを借り、鳥に仮託して、たとえ高位につき出世しようとも、旧来の朋友を軽んずべきでないという、人倫・道徳を諭したものとされる(渡辺秀夫「谷の鶯 歌と詩と」)。
- 伐木篇は、その漢詩からわかるように、季節感はなく、しかも幽谷を出て喬木に遷るのは「鳥」であって「鶯」ではない。
- 漢字「鶯」は、『毛詩』の小雅・桑扈(そうこ)篇の詩句「交交たる桑扈、鶯たるその羽有り」に見られるように、元来「羽などが美しい」という形容詞であるが、後漢の時代に作られた最古の漢字辞書『説文解字』に「鳥の名前」と記された経緯がある。
- 清代の段玉裁の『説文解字注』によると、伐木篇の鳥の鳴き声「嚶嚶(おうおう)」から「鸎(おう)」という漢字が作られた。「鶯」と同音であるが、毛伝には<「鶯」は「鸎」にあらず>と記されている。
伐木篇の解釈の変遷
『毛詩』の伐木篇の詩が、早春の季節感を持ち、さらに「鶯」という鳥名の詩へと推移する経緯は、1977年(昭和52年)に渡辺秀夫の論文「谷の鶯 歌と詩と」によって明らかにされた。
それに基づき、以下に要約する。なお、本稿は、MicrosoftのAIツール「 Copilot 」による推敲を参考にして、文章の構成を整理したものである。
(1) 漢~六朝期の漢詩の特徴
- この時代の漢詩は、朋友を求めるものが多く、「喬木を遷る」(遷喬)という表現は官位の昇進や出世の意味として用いられ、『毛詩』の古注に沿っていた。
- 鳥に関しては「黄鳥」「春鳥」「百舌(もず)」が登場し、「幽谷に早き鶯は鳴く(谷の鶯)」といった表現も見られる。
- 自然詩の中で季節感を伴うものは少ないが、後漢の張衡『文選』「帰田賦」には、春景の中で「倉庚(そうこう)」が「嚶嚶」と鳴く様子が描かれている。この点については、青木五郎の論文「大江千里『鶯の谷より出づる声なくは云云』」に言及がある。
なお、この鳴き声は伐木篇の鳥の鳴き声と一致することから、段玉裁(だんぎょくさい)が「鸎」を「倉庚」の異名としたことと関係があるのではないかと考えられる。 - 梁(りょう)の昭明太子の散文「姑洗の三月」では、鳥を「鶯」、さらに「谷の鶯」と解釈し、季節感を加えた点が注目される。ただし、梁の時代には「百舌」とする解釈も併存しており、鳥一般として捉えられていた。
- 六朝までの鳥の解釈は「春鳥・百舌・鶯を含む鳥一般」と考えられる。類書『芸文類聚』では伐木篇の漢詩を「烏」の部に分類し、倉庚や反舌の部には入れていない。
(2) 唐代の漢詩の変化
- 唐代に入ると、伐木篇の鳥を「鶯」として表現することが一般的になる。例えば、初唐の李喬の詠物詩「鶯」には、芳樹に群鶯が集い、幽谷の響きが広がる様子が描かれている。このような表現を契機に、「谷の鶯」という言葉が定着し、鶯が早春の象徴として唐代の詩で広く詠まれるようになる。
これは、近体詩の成立や韻律の影響によって、毛伝の「鶯は鸎にあらず」という伝統的な拘束から解放されたことが一因と考えられる。 - ただし、一部の詩では、『毛詩』の古注を踏まえ、鶯が谷を出ることを地位や能力の向上の比喩として用いる例も見られる。
中唐の太暦年間には「小苑の春、宮池の柳色を望む」、晩唐の開成年間には「鶯谷を出づ」の詩題で科挙の進士試験に詩作が出題され、「鶯遷」「遷鶯」といった言葉が生まれた。 - 晩唐の『尚書故実』では、「鶯谷を出づ」の詩題に対して「伐木篇には鶯の字はない。誤りではないか」との指摘があるほど、この時代には伐木篇の鳥が「鶯」として認識されていた。また、白居易の『白氏六帖事類集』でも鶯の部に分類されている。
- この科挙試験における「鶯遷」という概念は、安史の乱後、唐の律令制度が崩壊し貴族階級が衰退したことで、科挙出身者による国力の復興が期待された結果と考えられる。
毛詩の古注に基づく単なる出世の象徴ではなく、科挙制度をより重視する動きの一環であったと考えられる。 - このように、唐代において伐木篇の鳥が「鶯」として認識されるようになったが、その由来は明確ではない。由来説については、清代の段玉裁の『説文解字注』が参考になる。
以上