鶯谷駅名の由来考

鶯に誘われてシリーズ

鶯谷駅名の由来考

1.概要

 東京のど真ん中に、幽谷を思わせるような名前の鶯谷という駅名がある。その非対称性こそが魅力を醸しているように思われてならない。
 鶯谷駅が開業されたのは明治45年(1912)のことである。当時の鶯谷駅付近の地名は東京市下谷区上野桜木町、現在の台東区根岸1丁目である。駅名は土地の名前を採用することが多いといわれるが、その通例には従っていない。なぜ名付けられたのであろうか。

 そこで、由来に関係のありそうな資料を探してみると、

  ① 鶯谷駅南口の「鶯谷の由来」の説明板
  ② 『東京下谷 根岸及近傍図』の鶯谷

という2つの興味深い資料が見つかった。
 これらの資料について考察し、鶯谷駅の駅名の由来について改めて検討してみたい。
 

2.鶯谷駅南口の説明板「鶯谷の由来」に基づく由来

 鶯谷駅南口の改札口を出ると、その右手に「鶯谷の由来」という説明板がある。そこには次のように記されている。

 鶯谷といえば人々は直ちに鶯谷駅のあるそれを想うであろうが、これは明治以後につけられた名称で、江戸時代の鶯谷として知られているのはここではなく、今の谷中初音町にあって鶯谷といったのである。
 初音町というのは明治2年(1869)に出来た町名であるが、その起りは前から初音町三丁目にある霊梅院附近の森を「初音の森」といったから初音の森にもとづいているのである。初音の森といわれるようになったのは此の附近に鶯が沢山いたので、鶯にちなんでつけられたのである。
 附近には霊梅院、龍泉寺、海蔵院、長明寺、上三崎(かみさんさき)北町の本立寺、加納院、観音寺の七ヶ寺が建ち並んでいて、この下の谷を「鶯谷」といったので、その名は鶯の名所であったからである。
 それは元禄の頃、東叡山輪王寺の宮、即ち上野の宮様が京鶯を数多くここに放されたので、年の寒暖によっておそい早いはあるが立春二十日頃から初音を発した。関東の諸鳥の囀りにみな訛りがあるけれど、当所の鶯は皆上方の卵なので東国の訛りがなく音色にすぐれていたという。

 この説明板が作成された時期については不明であるが、谷中初音町を「今の」と言っていることから、谷中〇丁目に町名変更される昭和41年(1966)以前に作成されたものと推察される。
 説明板には、鶯谷駅の名前は谷中初音町にあった鶯谷という鶯の名所から名付けられたことが記されている。さらに、京鶯の放鳥の故事とそれによる初音の森と鶯谷という鶯の名所の誕生にも触れている。
 説明板を参考にしながら再考してみたい。

1)谷中初音町について

 初音は、鶯・杜鵑(ほととぎす)などのその年の初めての鳴き声,初声(『広辞苑』)、である。谷中初音町は、説明板にも記載されているように、「初音の森」にちなみ、鶯の初音に由来した名前である。ただし、「四町目にある鶯谷より起これるなり」(『東京府志料』)という説も存在する。「初音の森」とか「鶯谷」という名所ということもさることながら、それらの場所から聞こえてくる美声の初音が珍重されていたということであろうか。
 谷中初音町は1丁目から4丁目まであった。明治2年(1869)から明治4年(1871)の間に制定され、昭和41年(1966)に再編成され、現在の台東区谷中3、5~7丁目に町名の変更が行われている(『ウィキペディア』「台東区の町名」)。
 因みに、岡倉天心が開いた東京美術学校は4丁目にあり、その跡地は岡倉天心記念公園となっている(台東区下谷まちしるべ『旧谷中初音町四丁目』)。

 谷中については、江戸幕府によって編纂された地誌『御府内備考』谷中の項に、「江戸志に云ふ。谷中は上野の山と駒込の谷なるなれば谷中というよし」とあり、『ウィキペディア』谷中(台東区)の項には、「上野台と本郷台という台地の谷間に位置することから名付けられた」、とある。また、その谷間は根津谷と呼ばれ、かって石神井川が流れ込んでいたときに刻まれた流路跡(『ウィキペディア』石神井川)、といわれる。

 谷中は、『ウィキペディア』谷中 (台東区)の項によると、特に寛永寺の影響を受けて発展し数度の再編が行われている。その再編の歴史は次の通りである。

  1. 谷中は古くは武蔵国豊島郡谷中村であった。
  2. 江戸時代、上野に寛永寺が建立されると、谷中にもその子院が次々と建てられた。また、幕府の政策により慶安年間(1648~1651)に神田付近から多くの寺院が移転し、さらに明暦3年(1657)の大火により焼失した寺院が移転した。
     こうして、寺の増加に伴い参詣客が増え徐々に町屋も形成され、江戸の庶民の行楽地として発展したといわれる。
     
  3. 元禄期に崖下の百姓地を谷中本村(現在の荒川区東日暮里5・6丁目と西日暮里2丁目の各一部)として分離。崖上、すなわち、上野台の台地上の寺町が谷中村となるが、次第に市街地化され、一部は町地化されて谷中町、谷中三崎町(やなかさんさきちょう)となる。
     
  4. 明治2年(1869)から明治5年(1872)にかけて、谷中清水町・谷中坂町・谷中初音町1~4丁目・谷中茶屋町・谷中真島町・谷中上三崎南町・谷中上三崎北町の各町が成立する。
     
  5. 明治11年(1878)、これら谷中各町は上野とともに下谷区に編入される。明治22年(1889)、東京市の誕生と共に下谷区に編入されるが、この時点では、まだ谷中村も残存していた。明治24年(1891)に谷中村は分散され谷中各町に編入され、このとき谷中天王寺町も成立する。
     
  6. 昭和22年(1947)に23区制への移行に伴い台東区となる。昭和41年(1966)、住居表示実施に伴い谷中各町が整理統合されて現行の谷中1丁目から7丁目となる。谷中清水町は池之端3・4丁目に、谷中天王寺町の南端一部が上野桜木2丁目にそれぞれ編入される。
2)谷中初音町にあった鶯の名所について

 南口の説明板に紹介されているように、谷中初音町には、「初音の森」と「谷中鶯谷」という、2つの鶯の名所が存在した。

  1. 「初音の森」は、江戸時代の享保17年(1732)に刊行された『江戸砂子温故名跡志』に、霊幡院(霊梅院)の境内にあったことが記されており、霊梅院の境内を含む付近一帯で、上野台の北西の台地上に存在した森と思われる。
     下図は、国会図書館所蔵の『江戸切絵図』の断片図である。天王寺、古くは感応寺と呼ばれた寺院が中央部に見られるが、その西を南北に走る上野台の尾根道が黄色で示されている。通称、初音の道と呼ばれている。
     
  2. 「谷中鶯谷」は、前述の地誌『御府内備考』の続編で、『御府内寺社備考』とも呼ばれる資料に、霊梅院の「境外に鶯谷の名あり」と記されているので霊梅院の近くに谷があったことがうかがえる。
     また『御府内備考』には、「七面坂より南の方、御切手同心組屋鋪の間の谷なり、此谷へ下る所を中坂といふ」との記述が見られる。
     『江戸切絵図』の天王寺の近くに吉祥院と記されたあたりから北西の宗林寺と記されたあたりまで下る「七面坂」と記された黄色の坂道がある。その南側に展開される、黄色で囲まれた区画のあたりが谷中鶯谷と推定される。上野台の台地の北西端から根津谷に向って下る坂の途中にある谷で、その鶯谷へ下る中坂と呼ばれる坂がある。
江戸切絵図 根岸・谷中
『江戸切絵図』根岸・谷中編 (国会図書館所蔵)

 前述の御切手同心組屋鋪は、『江戸切絵図』によると、宗林寺の南に位置し七面坂の坂下になる。『国史大辞典』によると、切手番とは裏門切手番の略称で、切手番所に詰め、江戸城本丸の裏門(大奥に通じる切手門)を警護、そこを出入りする大奥女中の手形を改める役職。御切手同心組屋鋪はその役人たちの住居であろう。谷中には谷中切手町といわれた地域があった。

 霊梅院は上野台の台地上に存在するが、その境内が初音の森の一部であり、境外に谷中鶯谷が存在していたということは、上野台の台地上から坂に掛けて、初音の森と谷中鶯谷が続いて存在していたことを示している。
 谷中鶯谷は、谷中の名前の由来に関係する根津谷という深い谷ではなく、根津谷に向かう坂の途中にできた比較的浅い谷、しかも上野台の台地の頂上に近いところにある谷という地形上の特徴があると考えられる。
 また、人禽共生の世界が展開されていたと思われる。それ故に、より親しまれたのであろう。

3)谷中初音町が鶯の名所となった由来について

 徳川家の菩提寺のうち、増上寺は中世から存在した寺院であるが、寛永寺は、江戸城の艮(うしとら、東北)の鬼門を守護する寺院として京の都を守る比叡山にならい、「東の比叡山」の意味から東叡山と号し、寛永2年(1625)に天海によって創建された寺院(『ウィキペディア』寛永寺)、である。
 寛永寺の貫首は3代目から法親王が務めることになる。第5代の貫首は公弁(こうべん)法親王であった。寛文9年(1669)に、後西(ごさい)天皇の第6皇子として生まれ、元禄3年(1690)に輪王寺門跡に就任し関東に下向する。その後、日光山門跡、東叡山寛永寺貫首、比叡山延暦寺天台座主を兼任している(『ウィキペディア』公弁法親王)。輪王寺門跡は、輪王寺の宮、上野の宮とも呼ばれた(『ウィキペディア』輪王寺)。

 輪王寺の宮、公弁法親王の京鶯の放鳥の故事は、大槻文彦の『根岸及近傍図』の根岸名物「鶯」の項に、次のように記されている。

 元禄の頃(1688-1704)、時の上野の宮第三世 公弁法親王が「関東の鶯には訛りがある」とお思いになられて、上方から数百羽の雛をとりよせ根岸の地(現在の台東区根岸)に放ったことから、この土地の鶯の声は訛って聞こえないという。それから鶯の名所となり、初音の里とさえもいわれた。鶯はこの地にある竹林に巣をかける。他所の鶯の脚は黒いが、根岸産のものの脚は灰色で赤みがあり、その道の人は見分けられるという。

 また『ウィキペディア』公弁法親王の項によると、尾形乾山(けんざん、尾形光琳の弟)に命じて京都から美声で“早鳴き”の鶯を3,500羽取り寄せ、根岸の里に放鳥した、といわれる。このため根岸の鶯は美しい声で鳴くようになり、江戸府内でも最初に鳴き出す“初音の里”として名所になった、といわれる。

 これらの記述から、かなり大量の京鶯が放鳥されたと思われる。また、雅な鳴き声、麗しい鳴き声であったのであろう。『江戸遊覧花暦』には、臣女という女性の次の俳諧が記されている。

  舌かろし京うくひすの御所言葉  臣女

 『江戸砂子温故名跡志』によると、根岸の里に放鶯したときに谷中初音町にも放鶯された、といわれている。
 

4)何故隣町の谷中初音町にあった鶯谷の名前を付けたのか 

 駅名の名付けの動機については、鶯谷駅の南口の説明板に記されているように、公弁法親王の放鶯の故事が有名であったことや谷中鶯谷の名前が知られていたことなどが、名付けの動機になったと思われるが、それにしても、なぜ隣町の名所を使ったのかについては明らかではない。
 さらに調査を進めてみると、台東区の「下谷まちしるべ」に、上野桜木町は、上野公園北側の寛永寺寺域と上野台の東北麓(現根岸1丁目1番西側及び2,3番の大部分)に二分され、後者は谷中村の飛び地であったと記されている。谷中初音町は前述のように谷中村から独立した町域であるので、振り返ってみると、もとは同じ谷中村に属していたというゆかりがあったのである。

 鶯谷駅のある土地は鶯の名所である谷中初音町とのゆかりがあり、その関係から名付けられたことが推定されるが、その経緯からすると、「初音」でも「鶯谷」でもよかったのではないだろうか。
 まず「初音」であるがこれにすると、谷中初音町が隣町であり距離的に離れてしまい、違和感を抱かれる恐れがある。むしろ、「初音」を使うのならば日暮里駅の方が適しているが、地名の「日暮らしの里」から名付けられた日暮里駅は鶯谷駅より先に開業しているのでそれは一層難しいということになるであろう。
 また、電車が到着すると駅名がアナウンスされる。その声は、「はつね、はつね」である。その様子は、「はつね、はつね」という声が聞こえてきたので外に出てみれば鶯笛売りの声だったという江戸時代の小咄の光景に繋がり、誤解される恐れもある。
 結局のところ、消去法によって、谷中鶯谷という鶯の名所に起因する名称ということになったのであろう。

 なお、鶯笛についてであるが、江戸時代前期から中期にかけての養禽家である根岸の松川伊助という者が自ら工夫して作り上げた笛で、子飼いの鶯に付け声を行うのに使われ、また縁日で売られるようになった(『根岸及近傍図』)、といわれる。
 

 3.『東京下谷 根岸及近傍図』における鶯谷に基づく由来

 江戸時代の地誌には見られなかったことであるが、鶯谷という鶯の名所が、鶯谷駅の開業当時の上野桜木町に存在していたことが最近わかった。これを駅名の由来とする説については見たことはないが貴重な資料である。この資料について理解を深めたい。

1)根岸鶯谷 

 『東京下谷 根岸及近傍図』は、根岸倶楽部という地元のクラブの立案で、国語辞書『言海』の開発者として知られる大槻文彦によって、「根岸の道しるべ」として作成され、刊行された地図である。

 地図には、鶯谷の項が設けられ次のように解説されている。

 文政図では徳川家霊屋下の地を「ウグヒスダニ」と記している。元禄年間(1688-1704)の中頃、上野の宮が鶯を多くこの地にお放しになられたと伝えられている。もともと霊屋の下は火除地で、一面に樹木,笹が生い茂り、池には大蛇が住んでいるなどといわれた。維新後(1879年)に、上野から大猷公廟跡(たいゆうこうびょうあと)を貫いて坂(新坂、しんざか)を通し、坂下はことごとく人家となったが、今でも徳川家の所有地である。

 また地図上にも「志んざかした(新坂下)」のあたりに鶯谷と表記されている。
 文政図とは、月崖(げつがい)という人が文政3年(1820)に作成した地図である。

 上野の宮とは、輪王寺門跡を指し、寛永寺貫首を兼ねていた公弁法親王のことである。公弁法親王は、前述のように京鶯の放鳥の故事で知られる人であるが、この鶯谷に放鶯したのかは明らかではない。
 しかし、直接放鶯しなくとも、鶯は縄張りをもつ鳥であり、広範囲に拡散されると思われるので、根岸の里などから飛んできて巣をかけたと思われる。この鶯谷の付近は火除け地であり、『根岸及近傍図』の地図には灌木林らしいものが描かれているので、鶯はそのような木に巣をかけたのであろう。

 この鶯谷のある土地は、当時の地図上の東京市下谷区上野桜木町1~6番地付近であり、昭和18年(1943)に東京都制に移行したとき台東区根岸に編入され、現在の根岸1丁目1番西側及び2,3番の大部分とされる。他所の鶯谷と区別するために根岸鶯谷と呼ぶことにする。

 根岸鶯谷は、江戸時代には寛永寺の領域で、特に地名はなく、明治10年(1877)に桜木町と称したいと寛永寺側より希望があり命名された(『根岸及近傍図』)、といわれる。

 しかし、その地形は、徳川家霊屋下、すなわち上野台の東北の崖下の平地であり、谷と呼ばれる形状ではない。何故鶯谷と呼ばれたのであろうか。
 『広辞苑』を引くと、「谷」には、①山あいの細くくぼんだ所と、②きわまる,ゆきづまる、という2つの意味がある。①は通常谷といわれている地形である。根岸鶯谷は、②に該当する「ゆきづまり」の形状である。それ故に谷というのであろう。Webサイトで地形と地名の関係に関する資料を見ると、②の形状について谷といっているものが見られる。

 また、根岸鶯谷の付近で鶯谷としての痕跡を探すと、明治11年(1879)に敷設された新坂(しんざか)は一名鶯橋と呼ばれており、またその近くには鶯谷公園が設置されていることがわかる。
 正岡子規は、明治30年(1898)に、次の俳句を残している。

   片側は鶯谷の薄哉  子規
   新阪を下りて根岸の柳かな 子規
 

 2)鶯谷の落首について

 化政文化といわれた江戸文化の絶頂期に、第11代将軍であった徳川家斉(いえなり)は天保12年(1841)に亡くなっているが、そのとき次の落首があったとされる。

  芝枯れて上野はほんに花盛り
      鶯谷にほふ法華経の聲 『浮世の有様』「天保11,12年雑記」

 徳川将軍家の菩提寺として、芝の増上寺と上野の寛永寺とがある。家斉は増上寺に埋葬される予定であったが、その慣例を破って寛永寺に埋葬されたことから詠まれたもの、といわれる。

 『浮世の有様』巻之九「天保11,12年雑記」に、大御所様薨御に付き種々の洒落話として、次の記事が記されている。

 昔より大樹薨じ給ふときは、御一代は上野御一代は芝へ、代るがわる御尊骸の納まれるを定例にして、此度は芝へ納まれる順番に當れる故、その積りにて、芝に於いては何かと心構せし處、思寄らず御老中水野越前守殿計らひとして、御尊骸上野へ入らせらるる様になりぬ。
 此事御先例に背けることなる故、然るべからずとて、脇坂中務大輔殿之を拒み留められしが、越州之を聞き入れずして、上野へ入らせらるる様になりしかば、脇坂には其言用ひられざる上に、不首尾なる様子なれば、之を憤り切腹せられし抔(など)、さまざまの風説あるにぞ。夫につき下様の口さがなくて、落咄・落首・口合・悪口等数限りなく云ひ流行す。此事江戸よりして諸国へ書記して、事々しく送りぬる故、天下一統に之を云ひ觸らす。

 これにより、老中首座の水野越前守忠邦が老中脇坂中務大輔安董(やすただ)の反対を押し切って上野に埋葬させたことがわかる。
 脇坂中務大輔は、播磨国龍野藩の藩主で外様大名であったが、寺社奉行に取り立てられ、その功績から譜代大名に昇格し、さらに老中に昇っている。
 老中在職中の天保12年(1841)閏1月23日に突然死去した(『ウィキペディア』脇坂安董)、といわれる。因みに家斉の死没は同月7日であるので、風説通りなのかもしれない。

 前述の落首はその記事の中に記されているものである。また落首中の「鶯谷」については、長く隣の谷中鶯谷を指すものと考えていたが、根岸鶯谷の存在を知った今となっては、しかもそれが家斉が合祀された厳有院(げんゆういん)霊廟の下という場所を考え合わせると、落首の「鶯谷」は根岸鶯谷を示していると思われる。なお、厳有院霊廟は第4代将軍徳川家綱の霊廟で、鶯谷駅の南口に近い。

3)鶯谷駅の命名について 

 ところで、『根岸及近傍図』の初版が発行されたのは明治34年(1901)である。鶯谷駅開業の11年前のことである。
 出版元は根岸倶楽部であるが、その倶楽部は、森田思軒を中心に、饗庭篁村(あえばこうそん)、岡倉天心、須藤南翠、高橋大華、森鴎外、幸堂得知、幸田露伴などをメンバーとして明治23~24年頃にできた根岸に住む文人たちの集まりの総称(『東京下谷 根岸及近傍図』)、といわれる。因みにその倶楽部は現存している。
 このような状況や鶯谷駅が根岸鶯谷の跡地にできたという事情を考えると、鶯谷駅の名称は、谷中鶯谷に由来するというより、根岸鶯谷に由来していると考えるのが至当と思われる。

 余談になるが、根岸の鶯横丁に住んでいた正岡子規は、次の句を詠んでいる。

   鶯の遠のいて鳴く汽車の音 (子規 明治25年)

 高い声の鶯も汽車の音は警戒したということであろうか。
  

4.参考資料

  1. 『広辞苑』六版 新村出 2008年 岩波書店
  2. 『ウィキペディア』 インターネット百科事典 ウィキペディア財団
  3. 『改正新編江戸志』 東武懐山子 天保3年(1832)  国会図書館ディジタルコレクション
  4. 『東京府志料』東京都都政史料館 1959年 国会図書館ディジタルコレクション
  5. 台東区下谷まちしるべ『旧谷中初音町四丁目』
  6. 『江戸砂子温故名跡志』 菊岡沾凉(せんりょう) 享保17年(1732) 「日本古典籍データセット」(国文研等所蔵)」
  7. 『続江戸砂子温故名跡志』 菊岡沾凉(せんりょう) 享保20年(1735) 「日本古典籍データセット」(国文研等所蔵)」
  8. 『再校江戸砂子温故名跡志』丹治恒足軒・牧冬映校正 明和9年(1772) 国会図書館ディジタルコレクション
  9. 『御府内備考』 大日本地誌大系 蘆田伊人 昭和4年(1929) 雄山閣 国会図書館ディジタルコレクション
  10. Webサイト『猫の足あと 東京都寺社案内』 百丈山霊梅院
  11. 『御府内備考続編』百丈山霊梅院 文政12年(1829)東京都公文書館
  12. 『江戸切絵図』根岸谷中辺絵図 景山致恭他2人 嘉永2~文久2(1849~1862)刊 国会図書館ディジタルコレクション
  13. 『国史大辞典』 国史大辞典編集委員会編 吉川弘文館 1984年2月
  14. 『東京下谷 根岸及近傍図』初版 大槻文彦 根岸倶楽部 1981年9月 国会図書館ディジタルコレクション 
  15. Webサイト(『東京下谷 根岸及近近傍図 – Stroly』)Stroly 2019年10月
  16. Webサイト(『根岸及近傍図(明治33年)現代語訳』) 根岸倶楽部 2013年12月
  17. 『江戸遊覧花暦』岡山鳥 天保8 [1837]  国会図書館ディジタルコレクション
  18. 台東区の「下谷まちしるべ」「上野桜木町」
  19. 『浮世の有様』巻之九 国史叢書 矢野太郎 国史研究会 大正6年(1917)

(奥谷 出)


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