鶯宿梅 ――― 故事と伝説(2018年10月改訂)

鶯に誘われてシリーズ

鶯宿梅 ――― 故事と伝説(改訂版)

 早春に百花に先駆けて咲く梅と

  • うぐひすの谷よりいづる声なくは
         はるくることを誰かしらまし 大江千里(『古今和歌集』春上)

と詠われる鶯とは、ともに春を告げる使者とみなされる。鶯には春告鳥、梅には春告草の異名がある。
 「梅に鶯」といえば、早春という季を同じくする植物と動物という景物の取り合せ。春の象徴であり、雅な日本美の象徴でもある。これがいつ頃確定して行くのかは誰しも関心のあることであろう。

 梅に鶯を配するこの取り合せは、「竹に鶯」「柳に鶯」とともに中国伝来のものである。中国では、花と鳥を共に詠む花鳥詩が六朝期にはすでに見られ、初唐になると盛んになるが、「梅に鶯」は多くはない(Webサイト国立情報学研究所CiNii論文『「梅に鶯」の成立と変容』)、という。
 日本では「梅に鶯」が好まれたようである。唐を模倣して中央集権化が確立され、都が制定され、貴族が誕生するという「雅」の条件を満たす時代に、雅な花ともいわれる、中国原産の「梅が花」が花の代表として扱われたといわれる時代とが重なり、さらには貴族の家の園には梅が植えられていたことに原因を求めることができるのではないかと思われる。

 「梅に鶯」が最初に詠まれるのは、最古の漢詩集『懐風藻(かいふうそう)』における葛野王(かどののおおきみ)の漢詩「春日、鶯梅を翫(はや)す」の中の「素梅、素靨(そよう)を開き、嬌鴬、嬌声を弄ぶ」という句である。
 最初に大々的に取り上げられるのは、万葉の時代の梅花の宴の故事においてである。7首詠まれている。本稿の主題である鶯宿梅の故事への過程であり、重要なステップである。梅花の宴の故事におけるものを含めて、『万葉集』における「梅に鶯」の和歌は13首ある。

 平安時代に入ると、唐風が非常に強い弘仁・貞観文化が花開き、3つの勅撰漢詩集、空海や菅原道真などの漢詩私家集が編纂される(『ウィキペディア』平安時代)。それらの中に、

  •     梅花落
                  嵯峨天皇御製『文華秀麗集』春

    鶊(うぐひす)鳴きて梅院暖(あたたか)けく
    花落(ち)りて春風に舞ふ  

という梅と鶯を詠んだ例がみられる。「梅に鶯」が成立したのはこの頃であろう(『「梅に鶯」の成立と変容』)、という。
 こののち、寛平期に入ると、和歌の歌合せがしばしば催され、前述の大江千里の和歌など多くの和歌が詠まれ、最初の勅撰和歌集である『古今和歌集』に収録される。『古今和歌集』における「梅に鶯」については、

  • 梅の花見にこそ來つれうぐひすの
          ひとくひとくと厭ひしもをる (俳諧・1011)
  • 青柳を片糸によりてうぐひすの
          縫ふてふ笠は梅のはながさ  (神遊び・1081)

など、6首が知られている。
 こうして、鶯については、「平安時代に入ると、いくつかの例外はあるけれども、ほとんどすべては梅の花とともによまれ……」(『歌枕歌ことば辞典』鶯))となり、「梅に鶯」は和歌の代表的な景物の一つとなっていったといわれる(『梅に鶯』の成立と変容)。『古今和歌集』の仮名序に記される紀貫之の歌論の中の「花に鳴く鶯」も「梅に鶯」を想定したものといわれる(『古今和歌集全評釈』)。その後、「鶯宿梅の故事」へと展開される。こうして、「梅に鶯」は定着して行ったものと思われる。

 しかし、竹や柳との取り合せがないわけではない。江戸時代でも次の句に見られるような取り合せがある。あちこちをすばやく伝い飛ぶ流鶯(りゅうおう)という異名としての姿と思われる。

  • 鶯や柳のうしろ薮の前 芭蕉『続猿蓑』

 また、雅に対する鄙びから、藪は山里や谷とともに、鄙びの代表として扱われ、和歌に詠われるとともに藪鶯という異名が残されている。藪鶯は、藪に棲むという生態に由来したものであり、簡単に消え去る異名ではないと思われる。藪のそばにある蕎麦屋で藪そばを食うと、

  • 鶯をききながらくう藪のそば

この江戸川柳のような風流を味わうことができるのであろう。

 中国では、柳絮(りゅうじょ)―――春に柳の熟した実から綿毛をもった種子が飛び散るさま(『広辞苑』)―――や環柳(かんりゅう)―――送別に贈る柳の環: 帰ってくることの願いを込めて柳の環を作り、これを送別に贈る―――などの語句が漢詩に詠われ、好まれたようである。また西湖十景の一つには柳浪聞鶯という景勝地があり、「柳に鶯」を好む傾向の一端を知ることができる。

 『源氏物語』には「松に鶯」というまったく新しい取り合せが登場する。光源氏の邸宅である九条院の春の御殿(紫の上のいる御殿)に、ほどよい形をした作り物の五葉の松の枝に、これも作り物の鶯が止まらせてあり、それに手紙(和歌)が付けられている。

  • 年月をまつに引かれて経(ふ)る人に今日鶯の初音聞かせよ 明石の御方

 この和歌は、紫の上の養女として育てられている明石の姫君に宛てた、実母の明石の御方からの手紙(歌)である(Webサイト『源氏物語の世界』)。長い間待っている年老いた人に鶯、すなわち明石の姫君の初音を聞かせて欲しいと頼んでいるのである。
 「年月をまつ」と「まつに引かれて」の「まつ」は、「待つ」と「松」で、掛詞となっている。そして、春の御殿で、明石の御方から紫の上に木伝いして養育される明石の姫君を鶯(和歌は後述)にたとえている。そういう前提のもとに、明石の御方の気持ちである「待つに鶯(明石の姫君)}の状態が松に引かれて「松に鶯」に変化していったものと思われる。また、「松」と「引く」は縁語である。正月に小松を山から引き抜いてくる風習を指している。じっと眺めていると味が沁み出してくる、そんな味わい深さがある。

 次の和歌は、それに対する明石の姫君からの返歌である。

  • ひき別れ年は経れども鶯の巣立ちし松の根を忘れめや 明石の姫君

 「鶯の巣立ちし松の根」とあるが、鶯の巣は松の根元にあるわけではない。藪の中の木や竹の根元から1mほどの枝に巣を作るそうである。これは根本、すなわち実母を忘れていないということであろう。若い姫君ゆえに文脈から素直に表現してしまったのであろう。
 
 その後、明石の御方のいる冬の御殿を源氏が尋ねると、次の和歌が雑然として散らばっている。

  • 今日だにも初音聞かせよ鶯の音(おと)せぬ里はあるかひもなし 明石の御方

 これは、明石の御方が娘の明石の姫君に会いたいという心情を吐露したものである。

  • めづらしや花のねぐらに木づたひて谷の古巣を訪へる鶯 明石の御方

 これらは、源氏の来訪を予期して詠まれた和歌だという。それゆえ雑然として置いたのであろうか。
 「花のねぐら」は、紫の上のいる春の御殿であり、「谷の古巣」は明石の御方のいる冬の御殿である。「訪へる鶯」は明石の姫君を喩えている。「花のねぐら」と「谷の古巣」という雅と鄙びとが対照的に配置され、「谷の古巣」から「花のねぐら」へと木伝いする鶯(明石の姫君)のいる光景が鮮やかに浮かび上がる。この時点において、鶯は雅な鳥として捉えられている。

 紫の上が春の御殿に、明石の御方が冬の御殿に居住しているのは何故であろうか。鶯は、文学的には唐代になって春に谷を出るとされるようになり、冬の間は山の谷で過ごすという捉え方が定着したといわれる(『古今和歌集全評釈』)。春は花咲く雅な世界、冬は対照的な鄙びな世界。また紫の上を京の生まれで京育ちの雅な人、明石の御方は明石で生まれ明石育ちの鄙びな人。このように捉えると、紫の上が花のある春の御殿に居住し、明石の御方が冬の御殿に居住していることがわかるであろう。

 なお、明石の姫君と光源氏という男女、それぞれを鶯に喩える珍しい例がここには見られる。鶯は、鳴き鳥ということから女性人称(she)を使う鳥といわれるが、『源氏物語』はその原則を逸脱したたとえをしている。それは稀少性、新規性と捉えることができるのであろう。


梅花の宴の故事

 「梅に鶯」のたとえとして知られた梅花の宴は、大伴旅人が、大宰師(だざいのそち)として大宰府に赴任している天平2年(730年)正月13日に、旅人の邸宅で催されたものである。太宰府の役人たちのほか、九州各国の国司が参加し、梅をテーマに和歌を詠み、『万葉集』巻五に掲載される。32首が宴会で詠まれ、4首がその後に追加されている。

 旅人は、開会の挨拶で、

  •  中国にも多くの落梅の詩がある。いにしへと現在と何の違いがあろう。よろしく園の梅を詠んでいささかの短詠を作ろうではないか。

と結んでいる。この席で、多くの「梅に鶯」の和歌が詠まれている。

  • 梅の花散らまく惜しみわが園の竹の林に鶯鳴くも
              少監阿氏奥島(せうげんあしのおきしま) 五ー824
  • 春されば木末(こぬれ)隠れて鶯そ鳴きて去(い)ぬなる梅が下枝(しづえ)に
              少典山氏(さんしの)若麿 五ー827
  • 春の野に鳴くや鶯懐(なつ)けむとわが家(へ)の園に梅が花咲く
              算師志氏大道(さんしししのおほみち) 五ー837
  • 梅の花散り乱(まが)ひたる岡傍(び)には鶯鳴くも春かた設(ま)けて
              大隅目榎氏鉢麿(おほすみのさくわんかしのはちまろ) 五ー838
  • 鶯の声(おと)聞くなへに梅の花吾家(わぎへ)の園に咲きて散る見ゆ
              対馬目高氏老(かうしのおゆ) 五ー841
  • わが宿の梅の下枝(しつえ)に遊びつつ鶯鳴くも散らまく惜しみ
              薩摩目高氏海人(あまひと) 五ー842
  • 鶯の待ちかてにせし梅が花散らずありこそ思ふ子がため
              筑前掾門氏石足(ちくぜんのじやうもんしのいはたり) 五ー845

 「わが家の園に梅が花咲く」とか「わが宿の梅」とかの表現が見られるが、自宅の庭に梅が植えられていたのであろう。奈良、あるいは平安時代初期には、花といえば梅、梅が花の代表であったといわれている。
 梅花の宴の後日、追加された和歌の一つに次のものがある。

  • 梅の花夢(いめ)に語らく風流(みや)びたる
          花と我思(あれも)ふ酒に浮べこそ  大伴旅人 五ー852

 ここでは、梅の花を雅な花と捉えている。初出と思われる。この和歌の雅は、後年、ウグイス呑みという酒の飲み方へと発展していく。10杯の酒を5杯ずつ二組とし、梅花の5弁に擬して並べ、早く呑み終わった方を勝とするもの(『広辞苑』)、である。

 ところで、雅とは、「宮廷風であること。都会風であること。優美で上品なこと」(『広辞苑』)、である。 奈良時代、唐をモデルにして、中央集権国家が樹立され、平城京という都が制定され、平城宮という宮殿が建立される。一国を構えていた多くの豪族は貴族として体制の中に取り込まれ、唐風文化を育んで行く。まさに雅そのものがそこにはあったと思われる。大伴旅人はそのような貴族の一人である。
 次の和歌は、小野老(おののおゆ)が大宰府に下向した折に都を偲んで詠んだものである。

  • あをによし奈良の都は咲く花の
           にほふが如く今盛りなり   小野老 三―328)

 都にいるときよりも地方に行ってみて、都の雅やかな姿が瞼に浮かんできたものと思われる。そこには、匂うが如くの雅やかさが窺えたという。
 そのような状況の中で、中国伝来の梅を雅な花として捉えるのもまた自然な成り行きであろう。鶯は、まだ雅とは詠われていないが、これだけの「梅に鶯」の和歌が詠まれると、梅の香に触れて鶯が雅の仲間入りをするのは近いことを窺わせる。そして、後年、匂鳥(においどり)という鶯の異名が誕生することになる。梅にも匂い草の異名がある。


鶯宿梅の故事

 「梅に鶯」に関わるもうひとつの故事は、平安時代の鶯宿梅の故事である。この故事に関わる名木の梅は、臨済宗の名刹相国寺(しょうこくじ)の塔頭(たっちゅう)である林光院の庭園に接ぎ木をしながらも現存し、春には今も美しい花を咲かせる。

 この故事は、平安時代の寛弘3年(1006年)頃成立の『拾遺和歌集』に見られるものが初出である。

  •  内より人の家に侍りける紅梅を掘らせ給けるに、鶯の巣くひて侍りければ、家主の女かく奏させ侍りける。
       勅(ちょく)なればいともかしこし鶯の宿はと問はばいかが答へむ
    かく奏せさせければ、掘らずなりけり。

 ここで、内とは「内裏」、すなわち宮廷のことである。「鶯の巣くひて」、「掘らずなりけり」などに相違が見られるが、通常知られている鶯宿梅の故事は、白河院政期の平安時代後期に成立したとみられる歴史物語『大鏡』によるものである。
 夏山繁樹という180歳になる老人―――名前といい、年齢といい、いかにもとって付けたような老人であるが、ストーリーの妙を狙ったものか―――が、「いとおかしゅうあわれにはべりしこと(まことに趣があり、しみじみと感慨深いこと)」として語った語り物として記されている(『ウィキペディア』大鏡)。新編日本古典文学全集『大鏡』を参考にして意訳すると、次のようになる。

  •  天暦の帝〔村上天皇〕の御代(947―956)のこと、御所の清涼殿の御前の梅の木が枯れてしまったので、代わりの木をお探しになった。
     何某の殿が蔵人(くらうど)であったとき、勅命を受けて、私、繁樹に「若い者どもは木のよしあしの見分けがつくまい。その方探してくるように」との仰せがありました。
     私は、京の中心地の東の方を歩き回りましたが、適当な木がございませんでした。そこで西の京に出向き、どこそこにある家に、色濃く咲いている梅の木で、姿かたちの立派なのがございましたのを見つけて、掘り取りましたところ、その家の主人が、「木に、この歌を結びつけて持って参ってください」と召し使いを通して言われました。「何かわけがあるのだろう」と思っ て、木に結び付け内裏へ持って参りました。
     帝は「それは何か」とおっしゃって御覧になると、

        勅なればいともかしこしうぐいすの宿はと問はばいかが答へむ
        (勅命ですから、まことに恐れ多いことで、謹んでこの木は差し上げましょう。
         しかし、いつもこの木に来なれている鶯がやってきて、
         「私の宿はどこへ行ってしまったの」と尋ねられたら、どう答えたものでしょうか)

    と女性の筆跡で書いてありました。
     帝は、不思議にお思いになって、「何者の家であるか」と言って人をやってお調べになりましたところ、それは紀貫之殿の御娘の住む家だったのであります。帝は、「遺憾なことをしてしまったことだ」とおっしゃって、恥じていらっしゃいました。この繁樹、一生の恥辱はこの一件でございます。とはいうものの、「望みどおりの梅の木を持って参った」と言って、褒美に衣をいただきましたが、それもかえってつらくなってしまいました。と言って、繁樹はにっこりと笑った。

 『大鏡』では、梅を返したという記述は見当たらないが、論文『紀貫之の娘「鶯宿梅」歌説話小考』によると、後世『大鏡』の系統の作品が多く見られるが、その中には梅を返したと記すものがあるという。掘り起こして運んできたとすれば、和歌の趣旨からして返すことが前提になるであろう。『大鏡』が記していないのは記さなくてもそのことは当然のことと考えていたのではないだろうか。
 それから、『拾遺和歌集』では、和歌を見て梅の木を掘り起こさなかったということになっているが、梅の木探しに行った担当者がその和歌を見ることを許されるのであろうか、また勅命で探しているのに担当者の判断で掘り起こしを中止することが許されるのであろうか。和歌の効用とか徳ということが議論されているが、そういう判断はできないと思われるのである。
 そうすると、『大鏡』に記されるように、梅の木を一旦掘り起こし、御所に運び、村上天皇が短冊を見て感じ取り梅を返すというストーリーは誰しも納得できるものであろう。いや古代においては、そういうことが重要なのだと思われる。また、和歌に「勅なれば」とあることから、無断で掘り起こしたわけでもない。このあたりは180歳の老人のやることであり、如才ないことと思われる。

 『大鏡』の故事によると、梅を鶯の宿にたとえて梅を返してもらったもので、故事の名称を鶯宿梅という。その梅の木も鶯宿梅といいい、冒頭に記したように接ぎ木をしながらも現存している。さらに、梅の品種としてもその名は残される。また、天皇が梅を断念したことから、鶯には禁鳥(とどめどり)という異名が付けられる。
 禁鳥の異名については、鎌倉時代初期に4度天台座主に就任している慈鎮(じちん)の『色葉和難集(いろはわなんしゅう)』には、

  • ……その梅の木に鶯すをくひたりけり。最もくれなゐをよむべし。それよりうぐひすをとどめどりと云ふなり。梅をもとどむとよむべし。……

と記され、鶯が梅を屋敷に止めたので禁鳥としたとその由来が説かれている。

 ところで、何故林光院に鶯宿梅の梅が残されているのであろうか。
 足利三代将軍義満の第二子、四代将軍義持の弟義嗣(よしつぐ)が、応永25年(1418年)1月、25歳で早世された。その菩提を弔うため、夢窓国師を勧請開山として、京都二条西ノ京にある紀貫之の屋敷の旧地に林光院が開創される。それ以後、林光院境内の樹木として、この「鶯宿梅」は寺と消長を共にすることになった(Webサイト『臨済宗相国寺派』)、という。こうして、平安朝文化の優雅な思想を反映するエピソードとともに梅の木も残されたのである。
 
 紀内侍の機智に富んだ和歌と行動は、「梅に鶯」のたとえを不動のものとする役割を果たしたと思われる。鶯宿梅の故事は、その後各時代を通じて広められ、それを収めた作品はいろいろなジャンルに及んだ(論文『紀貫之の娘「鶯宿梅」歌説話小考』)、という。
 江戸時代の随筆『世事百談』には、

  •  梅に鶯をよめること、和歌には常のことなり、鶯宿梅の故事、拾遺和歌集に見えたるより、猶さらなべて世人も鶯といへば、梅はかならずあるべきものとしもおもへり。

という記述から、「鶯宿梅」の故事は「梅に鶯」の組み合わせに成り立つに大きく関与していることが窺える(『「梅に鶯」の成立と変容』)、という。

 一方、「梅に鶯」という言葉の初出は、浄瑠璃のセリフの中とされる。江戸時代の宝永7年(1710)頃初演の浄瑠璃「お染久松 袂の白しぼり」に下記のようなくだりがある。

  •  柳櫻に松楓。梅に鶯 紅葉に鹿。竹に雀や花に蝶。籬(ませ)の八重菊蔦かづら。桐に鳳凰 獅子に牡丹扇ながし砂ながし蟲づくし草づくし。

 「梅に鶯」のほか、「紅葉に鹿」、「桐に鳳凰」などの、花札の絵柄と一致する言い回しが既にできあがっている。こうしてみると、花札の絵柄によって、「梅に鶯」の取り合わせが民間に定着することに大いに影響を与えたと思われる(『「梅に鶯」の成立と変容』)、という。

 明治時代には、紀内侍の機智に富んだ和歌と行動は、「三才女」の唱歌の一番として、『尋常小学校読本唱歌』に取り上げられ、

  • 聞こえ上げたる言の葉は
        幾世の春かかおるらん

と讃えられることになる。

 また、鶯宿梅の名前は、その梅のような香り高く味わい深いものを届けたいという思いから、「梅酒」の商品名としても残されることにもなる(Webサイト『合同酒精株式会社』)。


神話の里「高天原」の鶯宿梅伝説

 この伝説は、鶯宿梅の故事について、インターネットで検索している途上で偶然に見つかったものである。古文献や故事のように検索対象を絞り難いものを検索するときに、インターネットは、特に威力を発揮するようである。

 瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は、日本神話で天照大神の孫、天忍穂耳尊(あまのおしほみみのみこと)の子。天照大神の命によってこの国土を統治するために、高天原から日向国の高千穂峰に降りたとされる(『広辞苑』)。
 その高天原伝承のある葛城地方は、大和朝廷以前の古代に葛城王朝と表現されるほど強大な勢力を誇った葛城氏という豪族の本拠地であった。その地にある高天彦(たかまひこ)神社の参道には梅の古木があり、鶯宿梅の伝説がある(Webサイト『古事記・日本神話の伝承地~高天原史跡ガイド』)。

  •  昔、高天寺(たかまでら)の小僧が若死にしたので、その師匠は嘆いた。
     すると、庭の梅の木に鶯が来て

       初春のあした毎にはきたれどもあはでぞかえるもとのすみかに

    と鳴いた。

、という。
 それ以来、この梅を「鶯宿梅」という呼ぶようになり、室町時代の『古今秘抄』には孝謙天皇(749~758)の御宇(ぎょう)のこととある(Webサイト『高野山真言宗 高天寺橋本院』)、という。
 高天寺は、高天彦神社の神宮寺、すなわち神仏習合思想のもとに、神社に付属して置かれた寺院であり(『広辞苑』)、孝謙天皇も深く帰依され高天千軒と呼ばれる格式の高い大寺院であった(Webサイト『高野山真言宗 高天寺橋本院』)。

 その伝説に関わる説話は、鶯・蛙(かはづ)の歌の事として、『曽我物語(日本古典文学大系)』に記されている。類似の説話は『古今和歌集序聞書三流抄』にも見られる。

  •  さても、花になく鶯、水にすむ蛙だにも、歌をばよむ物をといひけるは、人皇八代の御門(みかど)孝元天王の御時、大和国の葛城山、高間寺という所に、一人の僧ありけるが、又となき弟子を先だてて、ふかくなげきゐたり。
     つぎの年の春、かの寺の軒端(のきば)の梅の木ずゑになく鶯の声を聞けば、「初陽毎朝来(しょようまいちょうらい)、不相還本栖(ふそうげんほんせい)」と鳴きける。文字にうつせば、歌なり。
       初春の朝(あした)ごとにはきたれどもあはでぞかへるもとのすみかに
    と、鶯のまさしくよみたる歌ぞかし。(日本古典文学大系『曽我物語』)

とある。「初陽毎朝来、不相還本栖」は漢詩としての聞きなし声であり、「初春の朝ごとにはきたれどもあはでぞかへるもとのすみかに」は和歌としての聞きなし声と考えられる。

 『古今和歌集全評釈』によると、この聞きなし声は、亡くなった若い弟子が鶯となって、初春毎に毎年訪ねてくるが、会わずにもとの棲家に帰るという意味である、という。ここに、仏教の輪廻転生や輪廻再生の思想がみられる。
 弟子の僧がなくなり鶯になったということは、輪廻転生の思想にも基づくものである。また、初春毎に毎年訪ねてくるということは、輪廻再生の思想に基づくものである。
 この説話がいつ頃誕生したのかは不明であるが、

  • いかなれば春来るからにうぐひすの己が名をば人に告ぐらん
       美作守匡房(みまさかのかみまさふさ)『承暦2年(1078年)内裏歌合』

の和歌は鶯の輪廻再生を詠んだものであり、承暦(じょうりゃく)2年(1078年)という年代が明らかになっている。この頃には輪廻再生の思想が知られていたとみられる。
 一方、永承7年(1052年)は末法元年とされ人々に恐れられた。 この時代は、貴族の摂関政治が衰え院政へと向かう時期で、また武士が台頭しつつもあり、治安の乱れも激しく、民衆の不安は増大しつつあった。また仏教界も天台宗を始めとする諸寺の腐敗や僧兵の出現によって退廃していった。このように末法の予言が現実の社会情勢と一致したため、人々の現実社会への不安は一層深まり、この不安から逃れるため厭世的な思想に傾倒していった。仏教が堕落し社会が混乱している時代に育った鎌倉新仏教の祖師たちに大きな影響を与えた(『ウィキペディア』末法思想)、という。
 このように見てくると、輪廻再生とか転生の思想は、末法の時代とともに広まっていったのであろう。
 

 ところで、この和歌説話では孝元天王と言っているが、後述のように孝謙天皇とするものもある。また、鶯が詠んだという和歌については、和歌説話と鶯種梅伝説とで同じである。

 ここで、和歌説話における大和国の葛城山、高間寺は高天寺と思われるが、それについて考察してみたい。『万葉集』に次の和歌がある。

  • 葛城の高間の草野(かやの)早知りて
       標刺(しめさ)さましを今ぞ悔しき (『万葉集』七-1337)

 この高間は奈良県御所市高天のこととある。したがって、高間寺は高天寺のことであり、この和歌説話は高天寺縁起の伝承と考えてよいと思われる。なお、「標刺さまし」は恋のしるしを刺すことである。
 
 さて、高天彦神社の参道にある梅の古木が何故鶯宿梅と呼ばれるようになったのであろうか。そのことについて、もう少し掘り下げてみよう。
 鶯宿梅伝説と鶯宿梅の故事とは直接的な関わりのないものである。それに関わりをつけるにはそれなりの根拠が必要になる。
 まず、両者に共通する要素を探すと、梅の木に鶯が来て止まる、すなわち鶯宿ということである。これだけでよいと思われるかもしれないが、根拠が十分でない。鶯が早春に梅の木に止まることは稀であるが、それでも皆無ではない。そのように考えると、鶯宿梅という伝承のある梅はもっと存在しなければならない。また、鶯宿梅という品種の梅ならば鶯宿梅と呼ばれても不思議ではない。しかし、そういうことでもなさそうである。

 そこで、鶯宿梅の故事を使いたくなるような動機を探る必要がある。まず、高天彦神社または高天寺に関わる特別な事柄を列挙してみよう。
 一つ目は、古木の梅のある地には、高天原神話の伝承があり神話のふるさとである。二つ目は、高天寺は孝謙天皇が帰依(きえ)されたという由緒ある古刹である。三つ目は、仏教思想に関わる和歌説話の発祥の地である。四つ目は、鶯宿梅と呼ばれるようになった時代を孝謙天皇の御宇とするということが室町時代の『古今秘抄』に記されているということである。

 『古今秘抄』が生まれた室町時代について考えてみると、この時代は、神仏習合思想の本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)を拠り所にして日本神話にも手を加え補強を試みた中世神話の誕生した時期である。そういう思想が鶯宿梅伝説を生みだしたのであろうか。

 しかし、この時代にはより切実な問題があったことが窺われる。日蓮の孫弟子の日像は、後醍醐天皇より寺領を賜り、妙顕寺(みょうけんじ)を建立した。建武元年(1334年)後醍醐天皇より綸旨(りんじ)を賜り、勅願寺となる(『ウィキペディア』日像)。その後、京都には法華宗の寺院が次々と建立され、本山だけでも21ヶ寺を数えるほどに法華宗が勢力を拡大して行き、「題目のちまた」と呼ばれるようになる(Webサイト『フィールド・ミュージアム京都』)。
 奈良、平安時代からの仏教諸派は、鎌倉新仏教の誕生により、それに対抗する必要性が生じ、いろいろな対抗策を講じていた時代である(Webサイト『ウィキペディア』鎌倉仏教)。法華宗が勢力を拡大して行く時代においては、対抗策はより重大であろう。
 古刹の高天寺も対抗策を考える必要があったものと推測される。その結果、和歌説話から結び付く有名な鶯宿梅の故事に関わる名前を梅の古木に名付け、布教に努めたものと考えられる。源氏供養や和泉式部供養といって有名な名前を使い、布教に努めたことも知られている。
 さまざまな要因があり関わりがあると思われるが、おそらくは鎌倉新仏教への対抗策ということが主要な動機ではなかったかと思われる。

 さて、和歌説話についても、もう一つの重要なことをみておきたい。『古今和歌集』の仮名序には、

  • 花に鳴く鶯、水に住む蛙の声を聞けば、
    生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける

という歌論があり、それに由来した鶯の異名として「歌詠鳥」がある。鶯が鳴くのを、歌人が歌を詠むのに喩えて名付けられた異名である。
 また、江戸時代前期の和歌の研究書『本朝一人一首』や江戸時代中期の俳諧歳時記『滑稽雑談』には、

  •  孝謙天皇の御宇、大和国高間寺の侍児死して鶯となり、庭樹に来りて「初陽毎朝来、不遭環本栖」と囀る、この音を文字に写せば歌なり。

     一人一首
       初春のあした毎には来れどもあはでぞかへるもとのすみかに

    これ本朝におゐて鶯の歌を詠じたる例なり。故に歌よみ鳥といふならん。

とある。仮名序の「いづれか歌をよまざりける」ということに関する和歌の例を示し、歌詠鳥の由来を明示するという興味深い一節である。

  •  自然の声音これすべて詩と説いた仮名序の比喩が、鶯蛙をして自然の音楽家たるにとどまらず、歌人としての資格を要求せしめた事実に対して確証を与えねば止まらないのが、また伝説心理である。鶯の歌は謡曲「白楽天」にも見える。

とは、島津久基の国文学に関する考察である( 『国文学の新考察』)が、このような思考のもとに、歌詠鳥さらには歌詠鳥によって詠まれた和歌の実例が示されることになったのであろう。

 このことから、江戸時代前期には、高天寺の鶯宿梅伝説は広まっていたとみてよいのであろう。

(奥谷 出)

 
 


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