経読鳥の由来とその系譜について

鶯に誘われてシリーズ

経読鳥の由来とその系譜について

 経読鳥は、鶯の異名の中でもよく知られた異名である。しかし、いくつかの謎を残す異名でもある。本稿では、その由来と系譜について見ていきたい。

経読鳥の由来について

 経読鳥の由来については、今回検証していて分かったことであるが、実は2つある。
 一つは、『広辞苑』、『ディジタル大辞泉』などが記すものである。

  • 由来は、「鳴き声が法華経と聞こえるから」という。法華経説としておく。
  • 例として、江戸時代初期の『毛吹草(けふきぐさ)』の「金衣鳥(きんいちょう)、経よみ鳥、うたよみ鳥」を挙げている。

 もう一つは、江戸時代中期の俳諧歳時記『滑稽雑談(こっけいぞうだん)』によるもので、『角川古語大辞典』が踏襲している由来である。日本文学古典大系『初期俳諧集』の「犬子集(えのこしゅう)」もこの説に沿ったものと思われる。

  • 由来は、「ホーホケキョウ(ほう法華経)と鳴くことから」という。ほう法華経説としておく。
  • 例として、「鶯よなけ法花経(ほけきょう)の文字の数」と『毛吹草』の「金衣鳥(きんいちょう)、経よみ鳥、うたよみ鳥」を挙げている。

 ここで、金衣鳥は、唐の玄宗皇帝が黄色の鶯を金衣公子(きんいこうし)と呼んだ故事(『開元天宝遺事』)に関連して名付けられた鶯の異名である(『広辞苑』)。鶯に当てられる鳥は、日本と中国では異なることが江戸時代に貝原益軒によって指摘されている(『日本釈名』、『大和本草』)。貝原益軒は、中国のウグイス、日本のウグイスといって使い分けているが、実際には、中国ではコウライウグイスという鳥が当てられ、日本ではウグイスが当てられている。
 うたよみ鳥は、『古今和歌集』の仮名序の紀貫之の歌論「花に鳴く鶯、水にすむ蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌を詠まざりける」から名付けられた鶯の異名である。鶯が詠んだという和歌が現れるところまで発展して行くユーモアが知られている。

 経読鳥の由来についての本質的な相違は、鳴き声を「法華経」とするか「ほう法華経」とするかであるが、この鳴き声は聞きなしという方法によって聞いていることが、より難しくしていることである。聞きなしとは、鳥のさえずりなどの節まわしを、それに似たことばで置き換えること。コノハズクの「仏法僧」、ホオジロの「一筆啓上仕り候」、ツバメの「土喰うて虫喰うて口渋い」など(『広辞苑』)、であり、人の想いが込められていることが由来説を難しくしていると思われる。

 江戸時代の小咄や中勘助の「鶯の話」では、「ほう」を忘れて「法華経」としか鳴かない鶯に説法をしたところ、「ほう」を付けて「ほう法華経」と鳴き始めたという。また、室町時代の浄土真宗の中興の祖といわれる蓮如(れんにょ)は、「法ほききよ(法を聞きよ)」と鶯が鳴いているといって高弟を諭したことが知られている(『空善聞書』)。
 ここでは、「ほう」は仏法を指しており、これらの事情を考慮すると、ほう法華経説になるであろう。

 また、鶯の鳴き声は、縄張り宣言やラブコールを意図する「ほう法華経」や「ほーほけきょ」が主体であるが、ときには「法華経」や「ほけきょ」としか鳴かないことも知られている。
 柳田国男は、『野鳥雑記』の九州の鳥の項で、

  •  たとえば球磨(くま)郡の五木では、終日雨の旅宿で鶯の声ばかり聴いて暮したことがあったが、ホケキョと三音(みつね)に鳴くのは二十回に一度くらいなもので、普通はきまって四声ずつ続けて居た。

といっている。
 このように、「ほう法華経」と鳴くことが多いという実態から考えると、ほう法華経説が望ましいということになるであろう。

 しかし、法華経説も捨てがたいものがある。それは、経読鳥という異名の原点に関わるからである。経読鳥という異名は、鶯の鳴き声がほう法華経と聞きなされるのを、僧侶が法華経の経典を読むことに喩えて名付けられた名称である。このように、法華経の経典をイメージすると、法華経説を選択することになるであろう。
 相違を議論してきたが、どちらかを選択するところまでには至っていない。
 

経読鳥の誕生の背景について

 経読鳥の異名がいつ頃誕生したのかは不明である。しかし、前述のように、『広辞苑』や『角川古語辞典』などが例として参照した文献が『毛吹草』であることを考慮すると、経読鳥の誕生はその頃であったと推定される。
 『毛吹草』は、江戸時代初期の正保2年(1645年)に刊行された松江重頼の俳諧論書であり、排撃をする人たちもいる中で好評であったという。この時期は、キリシタン禁制のために鎖国が始まっており、仏教の檀家制度が確立されていく過程である。それとともに寺院の経済状況は安定化の方向に向い、僧兵化していた僧侶は読経を始め朝勤めをする光景が見られるようになる。そして、俳諧に詠われるようになる。

  • 鶯のほう法花経や朝づとめ 玄利 『犬子(えのこ)集』

 『毛吹草』と同じ著者の『犬子集』(寛永10年(1633年)刊行)には、経読鳥の誕生が近いことを窺わせる次の俳諧が記載されている。

  • 法華経ぞ鶯はよき声で候(そろ)    松永貞徳『犬子集』

 ほうほけきょうと鳴く鶯の声はよい声で法華経を読むようだ(新日本古典文学大系『初期俳諧集』犬子集)、という。

  • 鶯の初音や経の一の巻 松一『犬子集』    

 この俳諧は、ほうほけきょうと鳴く鶯の初音を法華経第一巻に見立てている(新日本古典文学大系『初期俳諧集』犬子集)、という。

  • 鶯の経よみうつや花のりん 正利『犬子集』

 花の輪に読経のときに打ち鳴らす鈴を掛けており、鈴を打ち経を読むが如く花の輪で鶯が鳴く(新日本古典文学大系『初期俳諧集』犬子集)、という。『古今和歌集』仮名序(かなじょ)の「花に鳴く鶯」を想定して、雅さを演出しているのであろうか。そして、何よりも「鶯の経よみ」という句を用いていることは特筆に値する。

 鶯の鳴くのを経よみと表現したり、鶯の初音を法華経の第一巻に喩えたりするような状況を見ると、経読鳥の異名は、これらの俳諧をベースにして生まれたものと推測できる。

経よみ鳥と経よむ鳥の系譜について

 『日本国語大辞典』によると、今まで経読鳥といっていたものについて、二つの系譜が見られる。
 一つは、前記の『毛吹草』に見える「経よみ鳥」である。よく知られている異名はこの系譜である。これ以後、次のように展開する。

  • 寛文11年(1672年)刊行の俳諧集『女夫草(みょうとぐさ)』の「釈教……経読鳥 鶯なり」。
  • 文政6年(1823年)初演の歌舞伎・『浮世柄比翼稲妻(うきよづかひよくのいなずま)』の「寂光浄土(じゃっこうじょうど)も及びなき、経読鳥の羽風(はかぜ)に連れ」。
  • 慶応3年(1867年)2月初演 歌舞伎『吹雪花(ふぶきのはな)小町於静(こまちおしず)』の「鳥類とはいひながら経読鳥といふなれば、ほうほけきょうが一期の別れ」。

 そして、もう一つの系譜は、寛文3年(1663年)刊行の俳諧集『増山の井』に「経よむ鳥」とある異名の系譜である。同著者の正保4年(1647年)刊行の『山之井』に

  • 法花経と鳴くといへば、経よむといひて
    初音は序品(じょぼん)、あまたに鳴くは千部などいへり 北村季吟

とある。法花経は法華経のこと。序品は経典の序となる部分で、松江重頼の『犬子集』に「鶯の初音や経の一の巻」という句が見られ対応する。千部は経典が千組そろっていることをいう。この解説は、『犬子集』の俳諧を踏襲したものと思われるが、「経よむ鳥」の「経よむ」という語句は、『山之井』からの引用と思われる。そして、この系譜は、

  • 延宝4年(1676年)刊行の俳諧辞書『俳諧類船集』の「匂ひ鳥、経よむ鳥」、。
  • 元禄16年(1703年)浄瑠璃『曽根崎心中』の「はや天王寺に六時堂七千余巻の経堂に経よむとりのときぞとて、
    経堂にて経を誦む酉の時刻(午後6時)を告げる鐘の音がご〜んと。」
  • 1835年頃の良寛の狂歌?
        五月雨の雲間をわけてわが来れば経よむ鳥と人は言ふらむ

へと続く。
 時間の経過とともに、経読む鳥も変化していく。良寛は、江戸時代後期の曹洞宗の僧侶、歌人であるが、「わが来れば経よむ鳥と人は言ふらむ」といっていることから、鶯ではなく僧侶が経読む鳥と呼ばれていることがわかる。経読み鳥も経読む鳥も、鶯がほう法華経と鳴くことから、法華経の経典を読む僧に喩えて名付けられた鶯の異名であるが、僧侶の異名に拡大していくのである。
 また、法華宗の僧侶ではない良寛、すなわち曹洞宗の僧侶でも経よむ鳥と呼ばれたことがわかる。
 対象が鳥から人へ拡大していることと法華宗の僧侶から他の宗派の僧侶へと拡大していることが同時になされており、興味深い和歌である。要は時代とともに範囲が拡大していくと捉えてよいのであろう。

 経よみ鳥を撰修して「毛吹草」に記した松江重頼と、経よむ鳥を撰修して「増山の井」に記した北村季吟は松永貞徳の門下であり、この二つの系譜は、松永貞徳を祖とする貞門派俳諧から生まれていることがわかる。そして、鶯の鳴き声を愛でることを端的に表現した次の俳諧も同じ時期に生まれている。逆説的に言えば、そういう盛り上がりの中で経よみ鳥や経よむ鳥の異名は生まれたのであろう。

  • 鶯の声には誰もほれげ経  (『毛吹草』)
(奥谷 出)


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